日記385

サルトルの「嘔吐」を読んでますけど、まあすごい小説ですね

・彼の思想とか、そういうものは一切抜きにして、純粋に文学作品として眺めると、その重厚な世界観に圧倒されます。つまり、何人もの登場人物が、いくつもの物語を背負っては現れ、そして消えていくんです

・並行して、ブライアン=ヘイズの「ベッドルームで群論を」を読んでます。ちゃんとベッドルームで。かなり有名な数学エッセイらしいですね、これ。

・数学的なものの考え方というものが、いかに有用かつ洗練されているかということを身に染みて分からせてくれる本です。著者にはそういう意図はあんまりないんだと思いますが、軽やかに語られるからこそ、数学というツールの持つ威力、その強力さを実感せざるを得ない

・ぼくの読書、結構いいところまできましたね

・およそ著作、本というものには、レベルというものがどうしても存在するというのがぼくの考えです。単純に、理解のレベルと捉えていただいていいですよ。誰もが初めから、ある分野の専門書を読み込めるなんてことはないわけで、読み手は自分の理解のレベルに合わせて、読む本を変えてゆくというのが自然な姿です

・良いレベルの本を理解しようと思ったら、読み手側にそれなりの理解力が求められるというのは当然のことです、そういう意味で、ぼくの読書のレベルは、最近やっとスタート地点に立てたところであり、これからもっともっと素晴らしい読書体験が待っていると思うとわくわくが止まりません

・去年まで、自分が心惹かれる種類のあらゆる本を乱読したこと、それから今年に入って、本当に読むべき価値のある本、腰を据えて著者の語りにじっくりと耳を傾ける価値のある本に出会えていることが大きな要因ですね

・今年もい~っぱい本を読もうね、ハ〇太郎

日記384

・別に取り立てて言うようなことではないんですけど、人生って虚しいものですね

・急に虚しさが込み上げてきてしまっている。平日の夜にこんな気持ちになってしまって一体どうしようというんですか

・人生で得るものって何があるんですか?得るものがないからなんだということでもないんですけど…

・唐突ではありますが、既存の価値観のバグリスト作りからいきましょう。ぼくがもっとも唾棄すべきと思っている考え方に、「人生、時間だけは誰もがみな平等に与えられた資産である云々」というものがあります

・要は、時間は一日24時間、皆に等しく与えられているのだから、これを有効活用して豊かな人生にしましょうという考えです

・これは嘘です。まず、時間は誰にでも与えられた平等な資産などでは毛頭ない。寿命というものが人によって違う限り、時間は平等ではありえないということは自明です。今この瞬間にも、突発的な事故で命を奪われている人すらいる。

・そうは言っても24時間という尺度は同じじゃないかという詭弁は控えて下さい。そうした言説が自ら認める通り、24時間というのは人間が人間の外側に創り出した尺度であって、人によって時間の長さ及びその感じ方が異なるということを認めましょう。

・同じ人ですら、環境や精神状態によって、時間というものの捉え方は異なるんです。もしも、今から24時間、意識が混濁する薬を飲まされて、24時間後に「君には24時間という時間が与えられていたのにどうして自由に使わなかったんだ」と聞かれたら腹が立つでしょう

・次に、こうした言説を煮詰めた結果出てくる、「時間を有効活用してより多くの評価、財産、実績を築こう」という言説。愚の骨頂です。

・肉体の寿命さえ終われば、今生で築き上げたものなど全て無に帰します。何かを手に入れた気になって、それがどうなるというんですか?いえ、もっと言えば、何かを手に入れる、築き上げるなどということそのものが、都合の良い幻想であって、この虚しい一生を何とか生き延びるためのささやかな慰めでしかありません。

・それが慰めに収まるものならば、まだよいでしょう。一人の人間が、心安らかに生きていくことができるという希望を与えてくれるものですから。そうではなくて、こうした言説のもとで囁かれる実績主義、成果主義というものは、もっと醜く目も当てられないものです

・人間は得てして、自分の評価/社会的地位/実績のために、他者を出し抜き、蹴落とし、傷つけることも厭いません。時にはそれを隠蔽したり、都合よくお化粧したり、ということすら平気でやってのける。そうなれば、それは到底、一個人の慰めのために許されるべきことではありえない

・だとすれば、このささやかな慰め、自己満足のために、どうしてあくせくと働いたり、働くようなふりをし続けなければならないのでしょうか。そうした醜い手続きの末に手に入れたと思い込むものですら、百年とたたず全て塵となって消えゆくものだと分かっているのに!

・そうは言っても評価/功績は後世に残る、つまり、ゴッホは死後よく評価された、みたいな付け焼刃の知識を振りかざさないでください。それがゴッホにとってなんだというのですか?

・最後に、そうした実績主義を全て諦めて、①刹那的、ないしは②禁欲的に生きるやり方をも、ぼくは否定したいのです。①については、あまりにも意味のない営みなので説明する気も起きませんが、②についてはやや曲者でしょう。「人生は虚しいかもしれないけれど、愛があれば大丈夫、貧乏でも構わない」というものです。

・愛なんてものがどこにあるのでしょうか。どこにもないのです。少なくとも人間の理性が直観できる範囲では、愛の証なんてどこにもないんです。誰もその存在を証明していないんです。誰かを愛することなんて、そもそも欺瞞なんです。脳内の化学物質が創り出したまやかしです。

・ただし、ただし。誰かを愛していると錯覚している自分、その存在だけは疑いようがありません。デカルトです。

・だから、今日も明日も、自分がいる、そのことだけを考えて生きていくしかないんです。他のことは全部嘘です。騙されないでください。甘えないでください。善く生きようなんて思わないでください。

・ということで、虚しいんです。何かに向かって頑張ることは全て無意味で、この世界には自分だけしかいないんですから。虚しいけれど、この寿命が尽きるまでは、それを認めて生きていくしかない

日記383

・昨日の思考を経て、自分のリサーチアウトプット専用のブログを立ち上げました。

https://cmatsu.hatenadiary.jp/

・考えたことを早速行動に移していて素晴らしい。過去に色々あった関係で、ドメインが若干変ですがまあ気にしない。

・ブログを書くにあたっては、HTMLで常に同じ項目を設定します。表とか、見にくいものがあるのは今はご勘弁

・前々回のブログに、「現代日本においては斬新かつ骨太な政策思想が出てこない」みたいなことを偉そうに書きましたけど、例えば現代日本で活躍する経済学者の一覧なんかを眺めていると、こんなに偉くて賢い(皮肉じゃないです)人たちが日々、知恵を絞っていても解決できない問題なんだから、どんだけ難しいんだと思いますよ

sites.google.com

・これを作っている安田洋祐氏自身も、東大卒業時は総代&プリンストンのPhDを2年半程度で取得というバケモンですからね

・さて、そんな中で自分が自分のリサーチをやっていく意味ですけど、これはもう、自分がやりたいからという以外に理由はないですね。

・これはつまり、先行き、自分がどんな人間になりたいか、どんな仕事をしていたいか、ということを考えて、目標を設定しておくという営みを放棄することを意味しています。「世界的なリサーチャーになりたい」から勉強するんだということではなくて、自分がやりたいからやるんだということです。

・これはまさに、前々回の記事で書いたような、必ずしも現代のアカデミアのコンテクストに属さない(属せない)、在野の思想家を念頭に置いています

・在野の思想家を目指してます、というのはあまりにもカッコつけすぎているので、何でしょう、シビリアンのような、カルティベートされた一般人を目指します、というのでどうでしょうか。

・うん。非常にしっくりくるな。英語を勉強する理由や、留学したい理由も、ここに紐づけられる気がしてきた。

・サラリーマンをやりながら、そこを目標にしていくということですね。エーリヒ=ケストナーの「点子ちゃんとアントン」の最後は、自分のケツに合った大きさの椅子に座れることが幸せだ、というようなフレーズで締めくくられていたように記憶していますが、そんな感じですね

日記382

・ということで、「思想のドラマトゥルギー」を経て、自分のリサーチについても考え直してます。

・ああいう本を読んでると随所で出てくる、研究者の「研究ノート」というものが気になるんです。今、自分が作ってるのは「独学大全」を基にしたリサーチログで、Excelに書き込む形にしてるんですけど、これをもっと自分仕様にしたい

・というかアレですね。今、自分の勉強の時間はカレンダーに明記する形で明示的に確保してるんですけど、必ず学習の終わりに、その日の学習内容をまとめる時間を取るべきなのかもしれない

・もっと言うと、その日学んだことをまとめることそのものが、勉強ってことになりますよね。だとしたら、もっとこの作業を、大事に考え抜いたやり方でやった方がいい気がしてきている

・あとですね、ちょっと別件になるんですけど、学習していると所謂「キーワード」みたいなものが出てくるんですよ。これもですね、どこかに体系的に記録しておきたいんです。

・かつ、ぼく自身、良くも悪くも見た目を重視する性格でして、これらのことを、シンプルなデザインで洗練されたやり方でやりたいというしょうもない欲求がある。せっかく勉強してるのに、自分のテンションが上がらないの、イヤじゃないですか。

・これまで、外山滋比古の「思考の整理術」を参考にしながら、カード式とか、一通り試したとは思うんですけど、なんかしっくりくるものがないんですよ

・あとはタイピングと手書きを上手く組み合わせて…かつ、いつでもどこでも参照できる形にして…と、考えることが盛りだくさんになってしまっている

・基本的に、OneNoteに一本化してやる、というのが去年までのやり方でした。それがいま、Excelに拡がっちゃったからややこしいことになってるんだな

・そしたらあれか、OneNoteを使い倒す方向で検討しましょうか?

・今少し考えたんですけど、他にも以下のような方法がありますね

・まず、専用のブログを作る。だから、動物園ブログと同じようなものです。ただし、アウトプットの形式を、今のリサーチログで使っている項目と同じものにしておいて、常に同じ枠組みで物事を考えられるようにしておく。

・それから、必ずしも自分だけで勉強する必要はなくて、他人を巻き込んでいくというやり方も考えられます。勉強会というと重いけど、自分のリサーチログを誰かに受け取ってもらうようにするとか。

・どっちもいいな。少し考えます。

日記381

林達夫久野収の「思想のドラマトゥルギー」を読み終えました。本書に触発されて読もうと決断した本もいくつかあります。デカルトの「方法序説」、サルトルの「嘔吐」。

・ほかにも興味をそそる本、人、分野がいくつも登場したので、本書をスタート地点に、色んな分野を渉猟するのも楽しいかもしれない。そのために本書を再読して、読書リストを作ろうかしら

・と同時に、自分の研究、特に動物園研究をもう一度始めたいという気持ちにもなりましたね。

・正確には、別に動物園でなくてもいいんですけど、なにかについて考えたり調べたりした形跡を、何かしらの形で残しておきたい。それも体系だった、自分に合ったやり方で、残したいと思うんです。それは必ずしも、現代のアカデミアにおける主流のやり方と、そぐうものでなくてもいいんですよ

・そういう意味で、自分の生理とか、直観というものについて考え直すきっかけとなる本ですね

・と同時に、人文科学や思想、文芸の分野で、大家と言って差し支えない人、現代日本においてはまあ出てこないですねということも感じました。

・います?そんな人。

・真面目な話、平成と言う時代を30年余こなしてみて、そう呼べる人がどれだけ出てきたでしょうか。自分の不勉強のせいもあるかもしれないですけど、日本においては人文科学、思想、文芸といったものは廃れていく一方だと思いませんか。

・あのー、世界レベルで見て「優秀な人」は増えたと思いますよ。ビジネス界でも、学界でも。日本の教育水準も上がって、世界の学問の門戸も幅広くなって、最近じゃ海外大学で修士取った人が隣の席で働いてても、あんまり驚かれませんよね。

・少し話はそれますが、日本人のノーベル文学賞受賞者は何人ですかと聞かれたら、ぼくは2.5人だと答えると思うんです。すなわち、川端、大江、そしてカズオイシグロですが、最後者は生まれこそ日本ではあるものの、文化的刺激のほとんどを英国で受けているはずですから、日本人作家とは呼べないはずです

・となると、大江のノーベル文学賞受賞は1994年ですから、まるまる30年近く、世界レベル(という雑な括りで申し訳ないけど)の日本人作家というのは生まれていないことになる。W村上がいるだろうとファンに叩きのめされそうですけど。

・何が言いたいかというと、文芸にとどまらず、「人間」というものを深く見つめて描くべき、科学/思想といったものが、現代日本で衰弱しつつあるということなんです

・また少し話がそれますが、動物園関連の調べものをしていた時に、広井辰太郎という人物のことを調べたことがあります。明治期の日本において、動物保護のあり方なんかを論じた人なんですけど、どうしてそれが分かるかというと、当時の雑誌に論陣を張ってる記録が残っているからなんですね。

・そうした記事を拾い上げてゆくと、当時の論客達と彼が、(厳密な意味でのロジックという観点で色々と突っこみどころはあるものの)いかに自分の論を張り、それを根拠立て、説得的に論を展開していったか、という、大らか、かつ実証主義的なやり取りが浮かび上がってくるんです

・今の日本において、そうしたことをできる人がどれだけいるでしょうか。必ずしもアカデミックな意味に限定せず、もちろんビジネスの文脈でもなく、鍛え上げられた自分の思想を持っている人というのがどれだけいるでしょうか

・昔は、少なくとも昭和初期から中期にかけては、そういう在野の思想家というものがごろごろいたはずなんです。そういう意味で、日本人の知識水準と言うのは、高まってはいてもどんどん貧弱になっているんでしょうね

金融政策ゆがめる2%物価目標 門間一夫氏: 日本経済新聞

・唐突に日経のリンクを貼りますけど、例えば日本の政治思想についても同様のことが言えると思ったんですよ。まさに氏が最後段で触れているように、マクロ経済政策の一つである金融政策に関して、日本発の骨太な政治思想が、日本のアカデミアから出てくる気配すらないんです。

・なぜ土曜からこんなにプリプリしているんだ、おれは

日記380

・わっはっは

・春めいてきて、気分がいいですね

・季節のせいというのもあるんですけど、仕事兼趣味でやっているリサーチがうまくいっているというのもおおいにあります

・自分が調べようとしていることがなかなかのブルーオーシャンであるということが分かってきたということですね。もちろん、研究価値とブルーオーシャンの度合いは反比例するのが一般的なので、あまりぬか喜びもしていられないんですけど…

・あとあれですね、お仕事で、クリエイティブなデザインができているということがある。どういうことかというと、例えば、あるテーマに関する研究において、幅広く知られている概念を改めて図示するということがあるじゃないですか。で、そのときって、結構お決まりの概念図というものがあると思うんです。

・そういう図について、今の自分のリサーチにおいては、従来とは全く異なる概念図を用いて、従来よりも分かりやすく解説できそうな見通しが立っているんですね。これは普段から意識して、アートや優れたデザインに触れている身としては嬉しいことです

・さて、最近読んでいるのは相変わらず林達夫の「思想のドラマトゥルギー」なんですけど、並行してデカルトの「方法序説」を岩波文庫で読んでます。

・これ、こんな面白い本だったんですか?何で誰も教えてくれなかったんですか?

日記379

・渋谷のユーロスペースで、「feels good man」を観ました。インターネットミームの恐ろしさを描いたドキュメンタリー映画

・先般の大統領選挙と議会襲撃を目の当たりにしてもなお、隠れトランプっつー人達のパワーがどこから湧いてくるのかよく分からなかったんですけど、それに対するかなりクリアな答えを得た気分です

アメリカのオタク文化の負の側面と言ってもいいと思うんですけど、そこに焦点を当ててるのが印象的でした。中でも秀逸だったというか腑に落ちたのは、彼らが自分自身を「ベータ」と呼称していることです

・これ、つまるところ、群れで行動する動物種において、群れのボスたるオスを「アルファ」と呼称するところから来てるわけですよ。それに対し、メスを獲得する資格を失ったもの、社会的競争に負けた自分達をベータと呼んで自虐している

・で、さらに考えなきゃいけないのは、なぜこうした現象が日本では起きないのかということですね。

・もちろん、引きこもりの人が引き起こす凄惨な事件というのは数知らずありました。数年前の、京都アニメ会社襲撃事件なんかは記憶に余りにも生々しく焼き付いています

・ただし、こうした事件が集団を巻き込んで暴徒化するという事例は、ぱっとは思い付かない。これは、「日本人の穏やかな国民性が〜」みたいな鈍ら刀では切れないでしょう

・これ、個人的には、アメリカンドリームの裏返しだと思うんです。「グレート・ギャツビー」なんかに端的に著されるような、「才覚と努力でのしあがれば巨万の富が手に入る」という。ここに、「意中の女性も思いのまま」というところまで加わると、それはもはやカウボーイ文化の時代まで遡らなくてはいけないんですけどね

・つまり、アメリカンドリームという、強すぎる光があったあまりに、落ちこぼれ精神という闇も深くなってしまったという解釈です。そこを行くと、日本社会もまぁグローバル化しましたけど、地方を中心に横並び意識は未だ相当強いはずなので、あまり深刻化しないというね(繰り返しですけど、個々の事件は凄惨なものだし、決して許されてはいけないものです。暴徒化/集団化していないという点が異なるというだけです)。

・カエルのギャグ映画かと思ったら、かなり勉強になって良かった

日記378

・自分の動物園ブログを読み返してたんですけど、ふふ、結構いいこと書いてるんですね。いいことというか、勉強のテーマ、骨格として面白そうなことが書いてあって、関連するデータとかで丁寧に肉付けしてあげれば、もっと面白いものになりそうな気がする。

・またぞろ、創造的な営みに興味が湧いてきています。小説を書きたいというのもそうなんですが、色んなことを勉強したいという気持ちになっている

・背景の一つには、本業のお仕事が評価されつつあるということがあります。今年入り後にやっているリサーチの延長線上にあるようなアウトプットを模索していて、それがどうやらうまくいきそうだということがある

・この辺、読書猿氏の各種メソッドを組み合わせたり、これまで蓄積してきた知的コミュニケーション術、具体的には「ISSUE DRIVEN」であったり、外山滋比古の「思考の整理学」であったり、松浦弥太郎の「考えるコツ」であったり、こうした先人の知恵を借りる形で進めていきたい

・もともと自分自身は、こういう、「メタ知」に関するメソッドを収集/実践することが大好きでした。学生時代のこうした蓄積が、今になって自分の力になっていると考えると、感慨深いものがあるし、一見遠回りに見えたこうした蓄積を怠ることなく行ってきてよかった

・みなさんそろそろお忘れかもしれませんが、これは自己肯定を目的としたブログです

・さて、もう一つの背景には、林達夫久野収の「思考のドラマトゥルギー」があります。これを毎晩、少しずつ読み進めている

・こうした本を読むと、現代の日本で”知識人”とされる人ですら、その知の蓄積がいかに浅薄なものであるかということに気が付かされます

・と同時に、知的であること、知的であろうとすることのもたらす、大いなる便益も思い知ることになります。そうした態度が、いかに人生を豊かなものとするか、ということです

・私にとって、知的であるということは謙虚であることです。知的であるということは、常に”自分が何も知らない”ということを認め続けることです

日記377

トルストイの「光あるうち光の中を歩め」を読みました。岩波版を一年前くらいに買ったけど、新潮版を古本屋で見つけて、あまりにも読みやすさが違うのでこっちで読んでしまった

・要するにトルストイ晩年の、キリスト教に対する篤い信仰を対話形式で認めた本なんですけど、洋の東/西という二元論で生きてきた自分にとってはなかなか衝撃的な内容だったので一気に読んでしまった

・そもそもその二元論とは何ぞやということですけど、まず曖昧でコンセプチュアルなところから申し上げますと、仏教的/神秘的な価値観の東洋と、キリスト教的/科学的な価値観の西洋、という二項対立が、ぼくの考えの根底にあります

・前者と後者の分かりやすい違いは、主客の合一に関する点に求められます。前者の価値観のもとでは、主客というものが分けられないんです。

・どういうことかというと、後者の方から話したほうが分かりやすいですね。科学的な営みの大前提とは何でしょうか。「科学の大前提は再現性にある」という教科書的な説明はまあ置いておいて、ぼくは、「主客の分離」を科学の大前提だと考えています。観察するものとされるもの、この二者があって初めて、科学的な営みがスタートできるからです。そういう意味で言うと、観察という概念そのものが、主客の分離を前提としていますけどね

・動物園ブログで論じている、展示の仕方に関する考え方も、この考えに依拠しています。この辺の話は同ブログをご参照ください。と言われて読む人は皆無だろ

・東洋的な価値観においては、主客の境目というものは曖昧です。「わたし」という確固たる観念は希薄で、「世間」に代表される他者と混じり合っていることがほとんどです

・で、まあこの辺の考え方の細かい論点は今はいいとして、ぼくが近年、特に重視しているのは、こうした東洋的な価値観のもとでの禅の考えなんです。それは、オイゲン=へリゲルの「弓と禅」なんかに記されている通り、武道というものが禅の考えに依拠しているから、というのが大きな理由です。なぜ自分が、ほぼ片時も止むことなく武道に惹かれているのかと考えるにあたって、その根底にある価値観に惹かれているからだ、と考えるのは不思議なことではありません

・さて、ぼくが武道的なもの、禅的なものに惹かれる理由の一つは、それがパラドキシカルであるからだ、というのはいつかのブログでも書きました。

・端的な例を挙げると、剣を振りかざして襲ってくる相手から逃れる手段としてもっとも効率的なものは、自分が一歩前に進み出ることだ、というものが挙げられます。後ろに引けば相手は勢いのまま追ってくる、横に避ければ残った足が斬られる。一方で、前に踏み込んで相手の横にすり抜ければそこは最早相手の剣が通り過ぎた場所だから安全である、というわけです

・また、ぼくが非常に禅的だと考える武道の一つに合気道がありますが、合気道には和合の価値観が根底にあります。向かってくる相手と仲良くなってしまうことが一番の手だ、ということです。それでなくとも、合気道では、相手が行使する力をむしろ増大/加速させることに心血を注ぐ、というパラドキシカルな側面があります。

合気道の達人が、相手に自分の指や手を握られているところから、相手をいともたやすく組み伏せてしまうという場面を見たことがあるでしょう。あれは、何かを握る時に人の手のひらのうちに(無意識に)螺旋状の力が加わっていることを利用して、これを増大/加速させてバランスを崩しているんです

・少し話が逸れましたが、要はこういうパラドキシカルな考え方というのを、ぼくは今まで東洋特有のものと思っていたんですが、どうやらそうではなさそうだということに気が付いたのが、この本を読んで得られた収穫の一つです。

・よくよく考えてみれば、キリスト教の教義の有名な一節を思い出すだけでも、この点は明らかです。「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」「汝の仇敵のために祈れ」。これらは、「本来憎んでしかるべき敵に対してこそ大きな愛を抱く」という、大いなる矛盾を孕んだ言説ですよね

・ただし、この点は、この本を読んで得られた収穫の一つにすぎませんし、中心的な気付きでもありません。

・この本で述べられている中心的な話題は、有り体に言えば「俗世の幸福に人間の真の充足は見いだせない」ということに尽きます。代わりに、キリスト教の原義に示されているような禁欲的な生活を実践することを通じて、精神的な充足を目指すべきだということを「光あるうちに…」というフレーズで表現しているわけです

・この辺が、なかなか自分としては実感を得難いところなんです。その端的な例が、政治の世界でありアカデミアの世界です

・自分のなじみの深い、後者から行きましょうか。凡そグローバルなアカデミアの世界というものは、世俗的なネームバリューのために利用されていると考えるのが現実的です。より名前の通った大学に在籍して、研究結果/良い成績という成果を通じて評価を集め、キャリアをステップアップさせてゆく、というための場としてしか認識していない人がほとんどでしょう。

・乱暴な表現を使えば、食いっぱぐれないためにはそれが妥当です。そうして、現代のアカデミアの原典である西欧社会は、根っからの競争文化、根っからの世俗主義に支配されている、と思い込んでいたわけです。

・もちろん自分にも、ヨーロッパ出身の知己はいますから(北米出身の友達はいないな…学生時代にニューヨークでホームステイしていた先も、アフリカ系移民のルーツの方だったし)、そこまで極端ではないにせよ、上のブレットで書いたような思想を持っていたことは事実です。そして、何がこうした西欧の価値観を規定しているか問われれば、それは宗教、すなわちキリスト教以外にあるまいと思い込んでいたわけです

・また時間切れだ

 

日記376

新国立美術館で、DOMANI展を見てきました。文化庁派遣の海外研修者達による作品展。階下の「佐藤可士和展」は、コロナ禍とは思えないものすごい混雑でした

・DOMANI展は、チケットやパンフレットにもなっていた大田黒衣美による作品が心に残りましたかね。猫の背中をキャンバスにボール紙や板ガムを配置していて、色んなテクスチャが混ざり合っているのが面白かったです

・ここ数日、かなり暖かいですね。いわゆる小春日和。春の訪れは、ぼくにとっては花粉の到来とほとんど同義です

・花粉を、許さない。

・久々に恋愛トークでもしましょうか。相変わらず何の進展もないですけど

・まあ、年齢的にも、恋愛トークと言ってもほとんど結婚トークに近いですけど。ここ数か月、「自分は幸せになりたいのであって結婚をしたいわけではない」という論法でやり過ごしてきました。

・付き合う、ということに関しても同じ論法で来ました。幸せになりたいのであって、誰かと付き合うことが必ずしも幸せを意味しない、というね

・この論法も、ここらでひっくり返したほうがいいんでしょうか。付き合ってみて初めて、幸せになれるかどうか分かる、的な

・いや、というのも、去年のブログを見返していると、ちょうど当時の彼女と別れたあたりから自分のライフ=アドミニストレーションも失速し始めたという実感があるんですよ

・これって巷でよくある、「好きだから付き合うのか、付き合ったら好きになるのか」みたいな話ですよね。おれはマックにいるJKなのか?

・例の本、といっても何が例の本なのかご案内でない方も多いかと思いますが、読書猿氏の「問題解決大全」ですね、あれのスキームを活用して、この辺の問題を少しでも解決に近づけようと努力したりしたこともありましたが、なぜかうまくいかなかった。

・もう一回やりますか。まずはスケーリングですね。今の状態を点数で表すと何点なのか、という。10点満点で言うと、恋愛に関する自分の現状は、4点くらいだと思います。

・このスキームを使うメリットは、なぜ0点でないのかという点と、どうしたら点数が上がると思うか、という観点から、少なくとも解決に向かって一歩を踏み出すことができる、ないしは問題の像を少なからずはっきりさせることができるというところです。なのでそこを考えていきましょう

・その前に、これはなんとなくの直観なんですが、とりあえず筋トレをした方がいい気がしてきた。ジムに行ってきます。

・行ってきました。まず、上記の論点はいったんぶん投げて、かつて社内恋愛をしていた時の話をさせてください。

・ぼくはかつて、2年半ほど、同じ会社の人とお付き合いをしていた時期があるんですが、まあ過去形になっているところからお分かりの通り、結果から言うとうまくいかなかった

・その原因は多分にぼくの言動に求められるんですが、なぜそうなってしまったかということが最近やっと分かり始めてきた、というお話です

・まず前提として、ぼく、会社の同僚のことをすごく大切に思ってるんです。下手すると一生付き合う仲になる人たちだし、そうでなくとも人間として魅力的な人が多いんです。

・で、そうした状況下で、ぼく自身としては、会社の人とお付き合いをしていることを、段階を踏んで徐々に周りの人、その大切な同僚たちにも打ち明けていきたかったんですが、当時の彼女はなぜかそうしようとしなかった。何度か理由を尋ねたりしましたが、そのたびに不機嫌に話を打ち切るので、ぼくもあまり深入りはしませんでした

・今になってやっとわかるんですが、ぼく、その状況がけっこうしんどかったんです。大切な人たちに嘘をつき続けているという感覚。

・嘘って、ほんとうに意味がないんです。アメリカの政治家、誰だか忘れましたけど、その人の至言に「多くの人をいつまでも騙し続けることはできない」というものがあります。

・調べたらリンカーンの言葉だった。原文は "You can fool some of the people all the time and all the people some of the time, but you can't fool all the people all the time"

・つまり、いつかは真実が嘘を駆逐する、という意味で、嘘って存在価値がないんです

・ということで、ぼくはいつでも誠実に生きていきたいというお気持ちを持ち合わせていることが多いんですが、2年半の長きにわたって、それができなかった。その結果、ぼくは次第に自分自身を大事にすることもできなくなって、よろしくない言動が目立つようになっていったんだと、今になって分かります

・で、今後も誠実に生きていくためにはどうしたらいいかというと、誠実な人とお付き合いするというのは前提として、やっぱりお互いのことを肯定できる関係でないとだめだと思うんです。肯定から信頼が生まれて、信頼から誠実さが生まれるので

・ということで話はめぐりめぐって、スケーリングの話。

・まあなんというか、お付き合いしたい人が周りにいないわけでもない、というと大変偉そうですけど、上記のような自分の価値観に照らしてみて、お付き合いしたらうまく関係が続くだろうなという人が周りに全くいないわけではない、というのが一つ目の根拠です。

・ただ、より点数が上がるためには、恋愛感情という要素が求められるんですよ。上記の話とも被るんですけど、互いに肯定し合うために、恋愛感情って結構大事なんです。恋愛感情って、要は意味もなくときめくってことですから、相手を肯定することにおいてこんなに便利なものはない。だって好きなんですもん

・で、そうすると、恋愛感情を持てる相手に出会う必要があるということですけど、ここで行き詰まるんですね。運に左右されちゃうんです

・ところが、それをひっくり返せる妙案が、あるんじゃないですか。

・一つは、恋愛感情とは何かということを突き詰めて考えて、自分がそうした感情を抱ける相手がいそうなコミュニティを探してそこに飛び込む。

・というのはですよ、仮に、恋愛感情を、「自分が持っていないもの、およそ持てないものに対する扇情」だとするじゃないですか。で、自分が持っていないあらゆるものをピックアップして、それを持ってる人がいそうなコミュニティに参加する。例えば、あくまで例ですけど、自分には芸術センスが皆無だと思ってるなら、美術サークルに参加する、みたいな、そういうイメージです。そうするとそこには、自分が持っていないものを持っている人が集まっている可能性が高く、したがって恋愛感情が生まれやすい

・いったん時間切れです

日記375

・昨日、上野の都美術館に行ってきました。吉田博の版画展。

・渓流なんかの水の表現が見事でした。それは特に、空間の把握と再現に優れているからだと思います。画面の奥から水が流れてきて、手前の段差で一気に水が流れ落ちるみたいな表現がよくあるんですけど、その勢いの付き方がとってもリアルなんですね。画面構成の観点からも、とってもテンポが良くて目が離せません。その辺は、空間上の構図を把握して再現する能力に優れていないと、なかなか表現できないものだと思います。

・んで、それはそれとして。本来の予定とは異なるんですけど、小説を書きたくなってきてしまった

・本格的に書き始めるのは4月以降でいいんですけど、アイデアをいくつか、ちょこちょこ練り始めたいなと思ってしまった。

・というのも、多分、本業のリサーチの方が若干行き詰っているからですね。どの部分で、どうして行き詰ってしまっているのかについて考える、それも含めてやっていくのか今年の「リサーチ」なので、行き詰まること自体は想定の範囲内というか、予定調和というか、予定通りというか、なんですけどね。実際行き詰まると、お気持ち的にはつらいよねというお話

・去年一年間、ブログを書き続けたのは、まあ自分の外に何かしらの「成果・実績」を残すという意味でも有用だったんですけど、何かを書くことで、自分でも気が付かなかったストレスを発散できていたのかもしれない。

・あとあれですね、万城目学の「鴨川ホルモー」を読んだら、青春小説の魅力にすっかりあてられてしまって、それで小説への情熱が再燃したというのもあります。

・んで、小説のアイデアを考える前に、ぼちぼちリサーチの反省をやっていきますか。何が今、問題なんでしょうか

・と、書いておいて何なんですけど、リサーチそのものという意味では、実はあまり問題はないんですよ。去年からこのブログで喚きたてている通り、「独学大全」のメソドロジーに沿う形で、着々と作業は進められている。この辺は、例年というか、これまでの自分の人生において、もっとも計画的に、芯を持って調査活動を進められていると言っても過言ではない。

・そうした中で何が不安かと言えば、アウトプットの形にイメージをつけられていないことですかね。つまり、自分がリサーチした内容を、例えば対外的に公表することをイメージしたときに、それが具体的にどんな形なのか、ないしは、どんな形になっているべきか、についての考えが足りていない。

・いや、本来的にはおかしな話なんですよ、これは。だって、例えば「独学大全」で述べられていることって、純粋な自分の知的好奇心を満たすため/それを体系立てた知識として自分の中にストックするための調査の仕方であって、対外的なアウトプットの仕方ではないんですから。

・ああ、「独学大全」では明示的に触れられてはいませんが、著者である読書猿氏のブログを読んでいくと、学術論文の書き方、まとめ方についての氏の知見にまつわる記事は散見されます。そういう意味では、対外公表物として、ひとまずは学術論文をイメージすればいいのかもしれないけど。

・ただ、悩ましいのは、ぼくはいわゆるアカデミアの人間ではないし、その一員となることを目指す人間でもありません。そういう人間が、アカデミックなペーパーを書くことを最終ゴールとすると、必ずコンフリクトが生まれるんです。何が言いたいかというと、ただのサラリーマンが学術論文を書いて何の意味があるんですか、ってことです。

・何というか、サラリーマンの中にも、さまざまなバックグラウンドのもとで、アカデミックスキルの突出している人間が少なからずいる、ということは知っています。そういう人は、ビジネスをこなしながら、ないしはビジネスのプロセスを上手に昇華する形で、優れたペーパーを書く能力を持っています。

・ところが一介のサラリーマンたる自分には、とてもそんな能力がないというところが悩ましいんですね。

・こういう時に、ぼくには一つの信条ともいうべきフレーズがあります。それは「不争」、何事にも逆らわず、誰とも争わず、それでいて自分の信念を通す、という信条です。

・この場合、「才能/能力のない自分」と争うことなく問題を解決していくことを目指します。だって、今の時点で何の才能/能力がないことは、しょうがないんですもん。ないものはない、あるものはある。ゆるぎないその現状と、争っちゃいけないんです。

・さて、手元の道具箱を開けましょう。こういう時に有用な方法がいくつかあることを知っています。まず使えそうなのは、ゴールを変える/再定義(リフレーミング)することです。

・今は、自分でも知らない間に、「対外公表物を(アカデミックペーパーのような形で)アウトプットする」ことをゴールとしてしまっています。それはいったい、本質的には何を指すのでしょうか

・言わずもがな、社会におけるビジネス上の実績作りですよ、これは。身も蓋もないですけど、ペーパーを書いて出すっていうのは実績としてすごくわかりやすいですからね。文章として残るものは、大げさに言えば一生残りますし、誰からも参照可能という意味で、自分のビジネスチャンスを拡げてくれるものです。

・ああ、だから小説も書きたいんでしょうね。自分にはこんな能力があるっていう披歴の場所として、アカデミックペーパーや小説を求めている。浅ましい限りですけど、事実だからしょうがないし、こういう浅ましい思考、「実績志向」とでも呼びましょうか、これを持っていたからこそ、ここまで社会人をやってこれたというお気持ちもある

・んで、この視点で、今抱えている問題をリフレーミングできないでしょうか。まず、実績の観点では、必ずしもペーパーを出すことにフォーカスを当てる必要がないんではないでしょうか。そもそも、ペーパーを書くことにフォーカスしすぎて、他の仕事がおろそかになっていないでしょうか。

・それだけはなくて、まずは実績としてのペーパーの落としどころを探るのではなく、今、何を知るべきか、というところにフォーカスして、少しずつ、必要な事実を積み重ねていく方が重要ではないでしょうか。

・もっと言うと、アウトプットの仕方を考えるのは「平のサラリーマン」たる自分の役割ではない、ということも意識すべきです。対外的な情報発信は、自分の責任の範疇外です。まずは「平のサラリーマン」として、どんな文脈でどんな事実を整理していくか、ということにのみ集中しましょう。

・小説は違いますけどね。表現の仕方も含めて、自己表現の営みですから、全てにおいて自分の責任、発表する小説が自分そのものです。

・リサーチに話を戻すと、対外公表に関する意識づけは上述の通りに改めるとして、どんな方向に調査を深化させていくかについては、ある程度は自分で、自分や自分の部署/会社の果たすべき社会的役割に鑑みながら、判断していくべきものでしょう。

・さて、ここまでの考えを整理しましょう。結局のところ、「何を明らかにすべきか」というべき論に基づくと、「何を明らかにしたいか」という欲求に基づく調査が、食い違ってしまうことを恐れていたわけですよね。

・この二者が、必ずしも矛盾しないということが分かればいいんです。つまり、自分が社会や会社組織の構成員である以上、自分が思う「これを知りたい」という気持ちの対象たる事実事項は、社会的役割のコンテクストから「これを明らかにすべきだ」という事実事項と同一のものである可能性が高いでしょう、ということです。

・自分の経験上、これはある程度、納得感のある主張です。

・ということで、「何を明らかにすべきか」というべき論だけにとらわれて委縮することなく、自分が何を知りたいか、という気持ちを大事にしながら事実を積み上げていきましょう。

・書くことで気持ちに整理がついた、よかったね。ブログの効能ですよ

日記374

・特にどこに行ったわけでもないけどブログを書きます

・もう、なんでもいいんですよ、書く理由も、書かない理由も…

・そうなってからが本当のブログだ、みたいなところもありますし

・リサーチが行き詰ってきたんですね

・まあ、行き詰るも何もなくって、何というか、最終的なアウトプットを思い描けていないだけなんですけどね

・もっとちゃんと言うと、知識を深めていくっていうことと、アウトプットの形をはじめに決めておくということは、本来的には矛盾するはずなんですよ

・つまり、「こんなことが言いたいからこういうアウトプットを出そう」と思っていても、知識を深めていくうちにその足場がガラガラと崩れ去るということはよくあるわけですね。

・にもかかわらず、例えば仕事として何かアウトプットを出すときに、いかに事実として正しくても自分の立場上こんなことは言えないとか、余計な制約がかかってくると、それだけで正しい事実認識ができなくなる、ということがよくあると思うんです

・こんなのもう、ただの愚痴じゃん

日記373

・そうなんですよ

・お気づきに、なられましたか

・今年以降は、日記を毎日更新するのはやめたんです

・いくつか理由はあるんです。まず、去年のブログを年末にまとめてみて、これはライフログとしての価値が高いなと思ったんです。どんな時に、どこに行き、何をして、何を感じたのかということの記録として、興味深かった。

・んで、ライフログであれば、日々の雑感ではなくて、お出かけか何かをした時に感じたことを書き付けておくのがいいだろうと思ったんです

・他には、去年の後半、記事の数合わせもあって、かなり乱文になってしまったという反省があるんです。何でもいいから書きなぐるのがいいという時期もあるでしょうが、そこは越えたのかなと。加えて、思ってもないことを書きそうで怖かった

・あと、リサーチがうまく回ってるということもあげられます。その記録をいちいちブログに書いてもいいんですけど、リサーチログは形式を決めて別で書いてるので

・ということで、他にも言い訳はありますが、今日は横浜美術館に行ったので、その旨書いておきます

横浜美術館と愛知美術館、富山市美術館の3つのコレクションが集まる、「トライアローグ」展。

・一番心に響いたのは、意外なことに、マックス=エルンスト「少女が見た湖の夢」でした。なんか最近、自分の趣味も変わってきたのかもしれない

日記371

・さっそく一日ズレている気がしますが、そんなことを気にしているようではこの先やっていけませんよ

・さて、今日のマーケットはジョージア州の米上院投票の開票結果が主な注目点。時間外取引で米金利がガッツリ上がりました。10年債は1%超え。

・ただしドル円はついていかず。まあ時間外だし、金利がかなり期待先行で上がったっていう判断でしょう

・結局ドルは、センチメントが悪くないもとで売り優勢。円も売られるんですが、ドル売りの方が勢いが強くてドル円は下落圧力かかってるっていうような感じでしょうかね