日記491

なぜあの頃、そして今、「信頼」が問題なのか

  • 最近ずっと「信頼」のことを考えていて、その延長で貨幣のことを調べているんだけど、ちょっと気になっていることがあります。というのも、ぼくが今面白がっているような「貨幣とは何か」「信用とは何か」「人はなぜ他人や制度を信頼できるのか」みたいな話って、洋の東西を問わず、1980年代後半から1990年代にかけて、やたらと集中的に論じられているんですよね。

  • 直接のきっかけは、『現代思想』1987年8月号です。特集タイトルが「コミュニケーションとしての経済」。ここに浅田彰 - 岩井克人 - 柄谷行人の鼎談「貨幣 - 信用 - 国家」が載っていて、さらに廣松渉「貨幣と信約的行為」、大澤真幸「資本主義の錬金術」、今村仁司「他者を信用するということ」、Marc Shell「貨幣の意味論」、塩澤由典「在庫 - 貨幣 - 信用、複雑系の調整機構」、猪木武徳「貨幣と信用をめぐる二、三の論点」、石塚良次「貨幣の不在と他者の不在」、宮本光晴「市場 - ルール - 組織」などが一冊に詰め込まれています。 リンク:『現代思想』1987年8月号の書誌 - 目次

  • で、最初は「冷戦が終結に向かったころだから、何かそういう時代背景があったのかな」と思ったんですね。いちおう年代をおさえておくと、ベルリンの壁崩壊が1989年、ソ連解体が1991年です。

  • つまり、冷戦が終わるより前から、冷戦期を支えていた大きな思想体系そのものが既に揺らいでいた、という考え方ができるかなと思ったんです。井上俊先生による戦後日本の社会学史の整理を見ると、1970年代に入ると、それまで大きな影響力を持っていた構造機能主義とマルクス主義がともに弱体化し始め、シンボリック - インタラクショニズムや現象学的社会学など多様な立場が出てきて、80年代にはポストモダニズムの潮流が形成された、と整理されています。 リンク:井上俊「戦後日本の社会学史から」

  • それまでであれば、「われわれはどんな世界に生きているのか」という問いに対して、生産関係とか階級とか所有とか国家とか、そういう巨大な説明体系で答えることができた。もちろん本当に答えられたかどうかは別として、とにかく「これで世界を説明する」という大きな装置があったわけですよね。

  • それが弱くなってくると、もっと基礎的なところが急に気になってくる。そもそもなんで見知らぬ人同士が交換できるのか。なんでこんな紙切れをみんな受け取るのか。なんで将来の約束を信用できるのか。なんで市場というものが崩壊せずに毎日動いているのか。

  • 考えてみれば、『現代思想』の特集タイトルが「経済」ではなくて、「コミュニケーションとしての経済」なのも象徴的ですよね。経済を生産や分配の問題だけでなく、「他者同士をどう結び付けるのか」という問題として読み直している。そこで貨幣とか信用とか他者とかいう概念が急に重要になってくる。

  • 同じ1987年4月の『思想』にも、富山太佳夫「『大きな物語』再考――ポスト - モダニズムとマルクス主義」という論考が載っている。まさにそういう時代だったということなんだろうね。 リンク:CiNii「『大きな物語』再考――ポスト - モダニズムとマルクス主義」

  • ただ、思想の流行だけで全部説明するのは良くない気もするんですよね。もう一つ、現実の貨幣そのものが、この時代にかなり不思議なものになっていた、ということは押さえておく必要があると思います。

  • 1971年のニクソン - ショック、そこから1973年にかけてのブレトンウッズ体制の崩壊で、戦後の国際通貨秩序は、金との兌換とか固定相場とかいう目に見えるアンカーを失った、というストーリーです。その後は変動相場制、インフレ、金融自由化、国際資本移動の拡大という世界に入っていくわけです。

  • Filippo Cesarano の Monetary Theory and Bretton Woods という本の紹介には、この変化が “the epochal transition from commodity money to fiat money”、つまり商品貨幣から法定不換貨幣への「画期的な転換」と書かれています。 リンク:Filippo Cesarano, Monetary Theory and Bretton Woods

  • もちろん、1971年から急に世界中の貨幣が不換紙幣になった、みたいな単純な話ではないです。ただ、金という「貨幣の外にある価値」に最後はつながっている、という分かりやすい物語が本格的に消えた。この時代に、「じゃあ結局、貨幣は何によって貨幣なんですか」という問いがリアリティを持ったというのは、かなりありそうな線です。

  • 同年代に貨幣論を展開する岩井克人は、かなり挑発的に “Money is money simply because it is used as money” と書きます。これを(よく言われるように)「みんなが貨幣を信じているから貨幣になる」とだけまとめると、少し違うと思います。岩井が言うのは、あるものが交換手段として使われると、その使用そのものがそのものへの「社会的な需要」を生み、さらに交換手段として使われる条件を作り出す、という自己支持的な構造がある、ということです。商品としての実質価値や国家による指定を、貨幣が貨幣であり続けるための外部的な根拠として置く必要がない、ということを、岩井は bootstrap mechanism と呼んだわけです。

  • 雑な言い方をすれば、1980年代は、思想の世界でも経済の世界でも、ある意味で「根拠が外から与えられなくなった時代」だった、と言ってもいいのかもしれないですね。

  • で、その上で冷戦終結がやってくる。冷戦期には、大雑把に言えば「資本主義か社会主義か」という制度そのものの選択が大きな問いだった。でも1989年から1991年にソ連圏が崩壊して、少なくとも暫定的には、「市場経済と民主主義」というモデルがいったん勝者になった。

  • そうすると、次に出てくる問いは、「市場経済を導入すべきか」ではなくなる。同じような市場制度、同じような民主的制度を作ったのに、どうしてうまくいく社会とうまくいかない社会があるんですか、という話になる。そこで前景化したのが、trustとか、social capital みたいな言葉だった、というのがぼくの今の仮説。

  • Ivana Marková が2004年の Trust and Democratic Transition in Post-Communist Europe の序論で、1980年代から90年代にかけて trust が “quite suddenly, a theme of the day” になった、と振り返っています。しかもこの本自体が、1989年以後の旧共産圏で、民主的な制度を作るだけでは足りず、政治への信頼とか制度への信頼とか、社会的信頼そのものが問題になることを扱っているんですね。 リンク:Ivana Marková, “Introduction: Trust/Risk and Trust/Fear”

  • フランシス - フクヤマも分かりやすい。1995年の Trust: The Social Virtues and the Creation of Prosperity。これは『歴史の終わり』を書いた人が、その後に「じゃあ資本主義社会同士の差は何で決まるんですか」という話をした本と考えていいと思います。

  • 出版社の紹介文にも、『歴史の終わり』では冷戦の終結が同時に21世紀型資本主義の新しい競争の始まりでもあると論じた、その続きとして Trust では経済生活の社会的原理を説明する、と書かれています。 リンク:Francis Fukuyama, Trust

  • つまり80年代の問いが、「資本主義とはそもそも何なんだ」「価値とか交換とか貨幣ってどうやって成立してるんだ」という話だったとすると、90年代には少し問いが変わって、「市場経済はまああるとして、それをちゃんと機能させる社会とそうでない社会の差は何なんだ」という方向に進んだように見えます。

  • Claus Offe の1999年の論文 “How can we trust our fellow citizens?” は、ほとんどこのことをそのまま問うているので、これはちゃんと読まなきゃいけない。Mark Warren 編 Democracy and Trust 収蔵。

  • Offe はそこで、Fukuyama、Seligman、Gambetta、Giddens、Misztal、Putnam など、90年代に trust を論じた研究者をずらっと挙げて、「なぜ今こんなに trust が問題になっているのか」と考える。その背景には、公共政策や社会的調整、さらには “the maintenance of social order itself” の問題についての共有された診断があるのではないか、と言っている。 リンク:Claus Offe, “How can we trust our fellow citizens?”

  • つまり、国家だけでも社会を全部制御できないし、市場の価格メカニズムだけでも社会は動かない。法律にも価格にも還元できない、「もっと柔らかいもの」が人間を結び付けているんじゃないか、と。そこで trust や social capital や civil society が出てくる。いまでは、主に Putnam の業績として知られること(だと思います)なので、日本では宮台真司などにも影響を与えているのかもしれない。

  • Anthony Giddens の The Consequences of Modernity も1990年。ここでは security / danger、trust / risk が重要な対概念になっていて、さらに “Trust in Abstract Systems” という章まである。Giddens は、我々が既にポストモダンに移ったというより、近代性そのものが radicalized / universalized した「high modernity」にいる、と考えていた。 リンク:Anthony Giddens, The Consequences of Modernity 書誌

  • ここで言う abstract systems というのも面白い。現代社会では、相手本人の顔や人格を知っているから信用するとかいう話ではなくて、金融システムとか専門家システムとか交通 - 通信とか、ほとんど中身を知らない巨大な仕組みに日常生活を預けなければならない。

  • なんかこれ、めちゃくちゃ貨幣ですよね。

  • ぼくは目の前にある預金口座を運営する銀行員を知らないし、日本銀行券を刷った人も知らない。そもそも紙幣が決済される制度の細部も普通の人は知らない。でも使う。つまり近代化とかグローバル化とか金融自由化というのは、人間が「知らないものを信頼して生きる」領域をものすごく拡大した過程としても読めるのかもしれない。

  • 以上、大きく二つの時代に区切って当時の問題意識をざっと見てみましたが、二つの時代の根っこにある問いは同じなのかもしれない。つまり、「物理的な強制でもない、法律そのものでもない、価格そのものでもないのに、人々を安定的に結び付けているものは一体なんなのか」という問いです。 これが、ホッブズの covenant の概念まで遡れるものだというのは、各種の教科書をもとにこのブログでも何度か書いてきたことです。なんで人間は将来の約束を守るのか。なんで相手が守ると思えるのか。なんで見知らぬ人の約束が信用になるのか。それが金融の credit にもつながる、ということです。

  • 最後に考察したいのは、なぜ2000年代になると、この手の話をあんまり聞かなくなるんだろう、ということです。

  • trust の研究自体は、1990年代後半以降に爆発的に増えました。Roderick Kramer の1999年の Annual Review でも、過去5年間に trust / distrust への学術的関心が dramatically に増大し、既に “rapidly growing literature” になっていると整理されている。 リンク:Kramer, “Trust and Distrust in Organizations”

  • 2022年の Kurt Dirks と Bart de Jong のレビューになると、過去四半世紀で trust は organizational psychology / organizational behavior の “core concept” になった、とまで言っている。 リンク:Dirks & de Jong, “Trust Within the Workplace”

  • つまり、哲学的な意味で「信頼とは何か」「社会秩序とは何か」と大きく問われていたものが、組織間信頼、職場の信頼、政治的信頼、医療、経営、ガバナンス、リスクコミュニケーションとかに分解されていった、と言えそうです。

  • これはぼくが最近ちょっと不満に思っていることとも関係しているかもしれないね。「信頼」という本来もっと大きな人文学的な概念が、定量的な変数として計測できる、みたいな方向に行った。もちろんそれによって分かったことも大量にあるので、それを否定するつもりはないけど、「信頼とはそもそも何なんですか」という問い自体は、科学化する過程で見えにくくなったのかもしれない。

  • 貨幣については、さらに進んで、1990年代になると中央銀行の独立性とかインフレ目標とか credibility とかいう枠組みがどんどん制度化されていく。

  • 楊枝嗣朗先生が2008年、「貨幣 - 中央銀行 - 国家の連関」という論文で、1990年代に中央銀行独立性の思想が一般に受容されるようになると、その後、貨幣と国家との関係が monetary economists の関心をほとんど引かなくなった、と振り返っています。 リンク:楊枝嗣朗「貨幣 - 中央銀行 - 国家の連関」

  • つまり、「貨幣は何によって支えられているのか」「国家と中央銀行って結局どういう関係なんですか」という根本問題が解決したわけじゃない。ただ、中央銀行独立性とか物価安定とかいう制度的回答ができて、みんなが「まあこれで解決済みですよね」と扱うようになった。問題が消えたんじゃなくて、制度の中に埋め込まれて、見えなくなった。

  • 1990年代後半から2007年くらいまで、先進国では低インフレ、中央銀行独立性、金融グローバル化、電子決済、金融革新がどんどん進んだ。もちろん金融危機はあったけど、少なくとも主要国の「貨幣そのもの」が根本から問われるような状況はかなり少なかった。

  • ライフラインのようなインフラが、正常に動いている時ほど見えないように、信頼についても正常に機能しているときには社会問題として表面化しない、ということです。貨幣が当たり前に使われている時に「なぜこの紙を受け取ったんですか」とは聞かない。金融システムが安定している時に「金融システムの安定って結局どういう意味ですか」とはあんまり聞かない。

  • で、2008年。金融危機です。

  • Amin Samman らが Finance and Society の2023年の論説で、2008年の危機は finance and society の研究にとって “a watershed event” だった、と明記しています。金融市場の boom がリーマン破綻で終わり、その後には finance に関する学術研究の boom が来た、という面白い整理をしている。 リンク:Samman et al., “After the boom”

  • 2008年の危機で分かったのは、民間銀行が勝手に貨幣を作っているように見えても、最後は中央銀行とか国家とか財政とかに支えられているということ。市場は自動的に自己完結しているわけでもない。「信用」というものは、人間の心理だけでもなければ、契約書だけでもない。制度の構造そのものだということが再確認されたのではないでしょうか。

  • で、さらに今ですよね。

  • 暗号資産、stablecoin、CBDC、tokenized deposits、QE、財政と金融政策の境界、コロナ期の大規模財政、インフレの復活。なんかもう「貨幣って何でしたっけ」という問いが再びむき出しになっている。

  • BIS の Agustín Carstens は2022年の講演 “Digital currencies and the soul of money” で、かなり直球に “Money is a societal convention.” と言い、そのうえで、通貨への trust が monetary system を結び付けている、と論じています。 リンク:Agustín Carstens, “Digital currencies and the soul of money”

  • 2026年には Banca d’Italia の Chiara Scotti 副総裁が、“Digital Money and the Architecture of Trust” という講演の冒頭で、16世紀マルタの貨幣に刻まれた “Non aes, sed fides”、つまり「銅ではなく信頼」を持ち出している。貨幣が受け入れられるのは intrinsic value のためではなく、value、convertibility、broad acceptance、そしてその背後にある institutions への trust のためだ、という話。 リンク:Chiara Scotti, “Digital Money and the Architecture of Trust”

  • ちなみに、この講演に半年ほど先駆けて、日本銀行の広報誌「にちぎん」の巻末コラムで、同じ貨幣のエピソードが取り上げられています。 リンク:広報誌「にちぎん」AIR MAIL パリ 貨幣に刻まれた統治と信頼の物語)

  • なんか面白いね。1987年に『現代思想』で思想家たちが「貨幣 - 信用 - 国家」とか「他者を信用するということ」とかをやっていた。その約40年後に、中央銀行の実務家が “architecture of trust” とか言いながら、ほとんど同じ根っこの問いをしている。

  • そうなってくると、ぼくが最近、貨幣、信頼、信認、安心、安定、ホッブズの covenant、岩井克人の貨幣論、齊藤壽彦の信用論、みたいなものをやたらと横断しているのって、本当にただの偶然なんでしょうかね。

  • もちろん、単なるたまたま、という可能性はあります。ただ、今の社会そのものがもう一度、「制度が正常に動くためには、人々は一体何を信じなきゃいけないんですか」という問いをむき出しにする局面に入っている、という可能性もあるように思います。

  • 現段階では、一つ仮説としてこう置いておきたい。「信頼」というものが思想上の大問題になるのは、社会秩序を支えている既存の基盤が、自明じゃなくなった時なんじゃないか。

  • ここで言いたいのは、「昔の人は人を信頼していたけど、今の人は信頼しなくなった」みたいな牧歌的な話ではないです。そもそも信頼なんて、昔から裏切られたり失われたりしてきた。たぶん変わったのは、何を信頼して生活しているのかを、いちいち意識しなくても済む範囲なんじゃないかと思う。

  • いま、信頼のブラックボックスがいろいろな場所で同時に開き始めている。2020年のパンデミックでは、科学、行政、専門家、メディアをどこまで信頼するかが、抽象的な政治問題ではなく、毎日の生活の問題になった。その後のインフレでは、「物価はだいたい安定している」「中央銀行はそれを安定させられる」という、先進国ではかなり長いあいだ背景化していた期待まで、もう一度意識されることになりました。

  • さらに大きいのが、国際社会そのものです。2022年のロシアによるウクライナ侵攻は、欧州の安全保障秩序だけでなく、「経済的な相互依存が深まれば、少なくとも大国同士の関係はある程度安定する」という冷戦後の期待にもかなり大きな疑問を突きつけた。エネルギー供給は安全保障の問題になり、経済制裁ではロシア中央銀行の外貨準備まで凍結された。ECB はこの出来事を、グローバル化と国際通貨制度にとっての “watershed” になりうると論じている。 リンク:Geopolitical fragmentation risks and international currencies By Tamar den Besten, Paola Di Casola, Maurizio Michael Habib Published as part of the The international role of the euro, June 2023.

  • 面白いのは、ここで問題になったのも結局「信頼」なんですよね。外国に置いた準備資産は本当にいつでも使えるのか。国境を越えたサプライチェーンは政治対立が起きても維持されるのか。経済的な相互依存は安定装置なのか、それとも相手に握られる弱点なのか。2026年には ECB のラガルド総裁自身が、かつて安定の源と考えられていた economic interdependence が、いまや disruption や “weaponisation of dependencies” に対する vulnerability としても見られるようになった、と話しています。 リンク:Preparing for geoeconomic fragmentation: Opening remarks by Christine Lagarde, President of the ECB, at a roundtable discussion on “Chain Reaction: Navigating Geoeconomic Shifts and Dependencies” at the Munich Security Conference, Germany

  • そこに米中対立が続き、さらに第二次トランプ政権が加わった。ここで重要なのは、トランプ政権を支持するか批判するかではなく、戦後ずっと背景にあった国際制度の持続性そのものが、改めて政治的な選択肢として見えるようになったことだと思います。第二次トランプ政権は2025年にWHOからの離脱を指示し、パリ協定からの再離脱を通知し、国際機関への米国の関与全般を再検討した。通商政策でも、既存のグローバルな貿易秩序が米国に不利だという認識を明示して追加関税を導入した。政策の是非とは別に、ここから見えてくるのは、「国際機関には主要国が参加し続ける」「昨日の通商ルールは明日もだいたい続く」といった期待が、自然法則ではなく、その都度の政治的意思によって支えられていたという当たり前の事実です。

  • そう考えると、いま揺らいでいるのは、個々の人や政府への信頼だけではないのかもしれない。「国際的な約束はだいたい守られる」「経済的相互依存は明日も続く」「専門家には共有された判断基準がある」「中央銀行は物価の単位を安定させる」「昨日まで通用した制度は明日もだいたい通用する」といった、信頼する以前に前提としていたものへの信頼です。BIS が2025年の世界経済を “uncertainty and fragmentation” という言葉で整理し、地政学的緊張と通商政策の不確実性が急上昇したと述べているのは、その感覚に近いと思う。 リンク:BIS Annual Economic Report 29 June 2025 I. Sustaining stability amid uncertainty and fragmentation

  • そして、もう一つのブラックボックスが情報です。SNSによって情報の発信主体が分散し、生成AIによって文章、画像、音声まで大量に生成できるようになった。以前なら、新聞の記事なのか、公的統計なのか、専門家の論文なのか、少なくとも「誰が言っているのか」を確認することで、ある程度は情報の信頼性を判断できた。でも今は、その入口から怪しくなる。OECD が最近の情報環境について、事実に基づく “common reality” が損なわれれば、社会的分断が深まり、複雑な政策問題についての合意形成まで難しくなると論じているのは象徴的です。信頼の問題は、もはや「この人は嘘をつかないだろうか」という二者関係だけではない。そもそも私とあなたは、同じ事実を見て議論していると言えるのかというところまで来ている。 リンク:OECD Survey on Drivers of Trust in Public Institutions – 2024 Results Building Trust in a Complex Policy Environment

  • こう並べると、2008年以後に起きていることにはある共通性があるように思える。金融危機は「市場は自動的に自己完結する」という前提を、パンデミックは「専門知と社会の関係」を、ウクライナ戦争は「平和と経済的相互依存」を、地経学的分断は「国境を越えた取引関係」を、第二次トランプ政権は「国際制度やルールの持続性」を、生成AIは「共有された事実の存在」を、それぞれもう一度問いに戻してしまった。いま起きているのは、信頼が単純に減ったというより、社会を支えてきたさまざまな信頼が「信頼として意識されずに済む状態」ではなくなってきた、ということなのかもしれないんですね。

  • いま揺らいでいるのは「人を信じる心」みたいなものではなく、もっと大きなものなのかもしれない。昨日まで当然だと思っていたルールが明日も続くこと。同じ制度の中に自分と他人がいること。意見が違っても事実を確かめる共通の手続があること。外国に置いた資産は必要なときに使えること。貿易相手は明日も貿易相手であること。そして一万円は明日も一万円であること。そういう「世界がある程度連続している」という感覚そのものが、近代社会における信頼の最も深い層だったのではないか。

  • だとすると、いま信頼について考え直す必要があるのは、信頼がなくなったからではない。これまで信頼とすら呼ぶ必要がなかったものが、信頼だったことに気づき始めたからなのかもしれない、というような気がしてきます。

日記490

日記2026/7/6

  • 留学の1年間と駐在の2年間、合計3年間の海外生活が終わろうとしている。この1週間、自分の引っ越しと出産・育児の準備のことばかり考えていた。Notionというブラウザ上のノートブックやAIを組み合わせると、とても効率的に準備ができた。それでもやることが山積みだったが、タスクリストをひたすら作って、妻とともにそれをこなしていった。

  • 実際、それらの作業はスムーズな準備のために必要不可欠なものだった。妻が出産から帰ってきた社宅に、気の利いたサイズの冷蔵庫や必要なスペックのエアコンがないなんてありえない。自分の住民票がなくて銀行口座を作れないなんてありえない。妻の出産まで時間が限られる中で、手戻りが起きないよう本当に重要なタスクを洗い出して、それらに対して極めて正しい優先順位をつけていく必要があった。自分はその作業をものすごくうまくこなしていると思っていたし、実際、結構うまくやっていたと思う。

  • そしてある時、はたと気がついた。自分は、何をしているんだ?自分たちは、何をしてるんだ?

  • 例えば、引越し。家具や家財をたくさん揃える必要があった。何もない社宅にイチから家具や家財を入れるのだから、ある程度きちんとインテリアのコーディネートの勉強をしなければ大変なことになると思った。そしてその直感は、今も正しいと思う。

  • そうしてyoutubeでたくさんの動画を見た。その道のプロが、とても参考になる動画をたくさんアップしてくれていた。それらのリンクをNotebookLMにどんどん放り込んでいき、自分なりのインテリアコーディネートのためのデータベースを作った。コーディネートで迷うことがあれば、こいつに聞けばすぐに何でも教えてくれるようになった。

  • ところがある時、つまりさっき書いた「ある時」と同じ時、自分はどうしてこんなに釘付けになって、動画を何本も何本も見ているんだろう、と思った。それから、そもそもなんでこのコーディネーターはyoutubeに動画をアップしているんだろう、とも思った。この時間はお互いにとって、いったい何なんだろう?

  • インテリアのコーディネートは、「その道のプロ」に直接任せればいいはずだ。youtube上だけですら、こんなに的確にインテリアのコーディネートを解説してくれる人がいるんだから、少し探せばネット上でこういう仕事を探している人、「どなたかコーディネートの案件をください」みたいな人がいるはずで、その人にいくらか払って頼めば、自分たちが入居予定の社宅を見た上で、予算も踏まえてぴったりなアドバイスをくれるはずだと思った。それなのにどうして自分はyoutubeで大量の情報をせっせと消化しているのだろう。そしてなぜこの youtuber も、遠く離れたぼくから、たとえ1円でもいいからというような感じで広告を出して、何かを売りつけようとしているのだろうか。そもそも、ぼくたちの社会ではどうして、youtuber とかいう本当に実在しているのかも分かりもしない存在がたくさん動画を作っていて、そしてどうしてぼくたちはそれを大量に消費してばかりいるんだろう?

  • こうなってくると疑問は止まらなかった。ぼくたちはなにを、なぜやってるんだ?子供を乗せて実家に帰省したりしたいから、車選びも同時並行でやった。いい中古車を安く買うコツも色々と調べた。そういう情報がネット上に溢れていたから、それをNotebookLMに突っ込むことは、単純作業で時間が溶けていくということに目をつむれば、造作もないことだった。でも本来は、車選びだって、その道のプロに任せればいい。近所の中古車販売店に行って、店員さんに訊いて、おすすめを買えばいいじゃないか。その中古車販売店は、中古車販売のために社会に生まれて存在しているのだから、中古車販売店に「中古車の販売」を任せるのが社会的には1番効率がいいはずだ。どうしてそれができないんだ?

  • 保育園のことも妻がたくさん調べてくれた。でも保育園だって、基本的にはどこだって問題ないはずだ。というか、そうなるように社会システムを設計し、そうなるように税金を払ってきたはずだ。それなのにどうしてぼくたちは、莫大な社会的コストを支払って保育園制度を整備してもなお、その実態がよくわからない待機児童とか、何かがひどい保育園とか、そういったある種のネガティブなイメージに怯えて、いくつも保育園見学を申し込まなくてはならないのだろうか。こんなに税金を払っているのに、どうして?

  • インテリアコーディネート・中古車選び・保育園探し。これらを他人に任せられないのには十分な理由があると思う。今のこの社会では、他人・企業・行政が、なんとなく信じられないんだ。

  • これはトートロジーじゃない。この社会には信頼が欠けている。「この社会」というのを少しだけ詳しく言えば、これは大衆消費社会だ。大衆消費社会には、必ず信頼と裏切りが存在する。そしてぼくたちは、わりと手ひどく、この社会で騙されてきた。

  • ケータイのプラン。スカスカのおせち。転売ヤー。 FX投資。注文住宅。ワールドカップを見るための月額料金。ウォーターサーバー。残クレアルファード。タワマンペアローン。屋根の修理に来た人。今日も誰かが少しだけ、「騙された」という気持ちになっている。それは本当に、「少し」かもしれない。お金を出す人が、あまりに無知だっただけかもしれない。「ちょっと考えればわかっただろう」となじられて、余計嫌な気持ちが半分、そう言われれば自分が馬鹿だったなあ、という気持ちが半分になったかもしれない。

  • いつの間にかこの国は、修羅の国になってしまった。

  • つまり、とにかくもう、信じられないんだ。自分たちが無邪気に消費をすることで、誰かが不当に儲かるかもしれないと思うと、夜も眠れない。

  • 人間は自分が損をすることにものすごく敏感にできている。だからこれが許せない。そうやって買い物の前に、ものすごく慎重に物事を調べなければいけなくなった。

  • 大衆消費社会は、一見すると、すごく消費者にとって優しい社会であるようにも見える。例えば大型のショッピングモール。週末にそこに行くだけで必要なものがみんな手に入る。だけど本当はそれは商店街でよかったはずだ。商店街とショッピングモール。根本的な発想の違いはほとんどない。でもショッピングモールを建てることがなんとなく新しかったし、場合によっては、それが地方にとって公共工事という観点から見て良かったのかもしれない。

  • 結果として、例えば商店街でなじみの店員さんにいろいろと聞いて、信頼できるものを自分の感性で選んで購入するというプロセスは無くなってしまった。肉屋から八百屋、魚屋を転々としなくてはならないという手間は無くなったけど、同時に大事なものを失ってしまった。便利さについてだけ論じて、それ以外のことは論じなかった。

  • ちなみにフランスでは、大手スーパー等を un grand distributeur と呼んで個人商店と区別し、これが生活圏に侵入してくる、という感覚がいまだにある。もちろん、首都であるパリではどこもかしこもスーパーがあるけれど、マルシェの文化や、個人商店でいいものを安く買うことは、今でも広く尊ばれている。

  • そうではなくなってしまった、日本にぼくは帰る。誰がこんな国にした?こんな国に、誰がした。

  • つまりこれは便利さの問題でもある。消費者が便利さを求めた結果、ここまで社会がおかしくなってしまった。

  • そしてそこに、企業という飽くなき利益を追求する主体が見事に適合してしまった。どちらも悪くはない。そしてどちらも強烈に、激烈に悪い。

  • そして今、AIの時代が到来した。世の中のほとんど全員がAIを使ってクソみたいなものばっかり作っている。そのほとんどは本来は、生まれても意味のなかったものだ。しかも貴重な時間ばっかり無駄になっている。世の中、ゴミばっかりが増えて、本当に価値のあるものが消えていっている。

  • こんな社会おかしいだろう、と誰かが言わなきゃいけない。

日記489

・いやはや、お疲れ様です。

・最近ずっと読んでいた信頼に関する準専門書、「信頼と裏切りの哲学」を読み終えたんですけど、次の一手をどうするか考えているうちに、なぜか無意識のうちにイマヌエル・カントの『純粋理性批判』を読み始めている自分に気がついたんですね。

www.keio-up.co.jp

>こちらで序論を試し読みできます。

note.com

 

・信頼というテーマについてSEP(Trust (Stanford Encyclopedia of Philosophy/Spring 2024 Edition))とか「信頼と裏切りの哲学」で一通り学んで整理できたはずなのに、自分の中でまだ解かれていない問題が残っている感覚があって。それが僕をカントの哲学へと向かわせたんだろうなと思うんです。

・というのも、既存の哲学や議論って、「すでに存在する信頼がどう維持・拡大・崩壊するか」というプロセスに偏っている気がして。

・信頼関係が構築された後のメカニズムとか、それが裏切りによってどう崩れるかといったテーマについては、多くの文献で詳細に論じられているわけですよ。

・しかし、お互いに何の接点もない状態から「信頼が0から1になる瞬間」に何が起きているのかが、未解明のままであるという問題意識がどうしても拭えない。

・全く未知のAさんとBさんが初めて出会ったときや、人間が未知の対象に初めて直面したときなど、ゼロの状態から相手を信じてみようと決断するその瞬間のメカニズムこそが、僕にとって最も重要な問いとして残っているんですよね。

・例えば、道端で見知らぬ人から突然チョコレートを渡されたとする。当然、警戒しますよね。

・でも、その人が医者のような白衣を着ていたり、パリッとした立派なスーツを着ていたりすれば、僕たちは「こういう身なりの人は安全だ」という過去の経験を頼りに、チョコレートをつい食べてしまうかもしれない。これは一見すると、見知らぬ人を信頼したように見える行動ながら、しかしその実、過去の経験に依存した推測であり、純粋な「0からの信頼」とは言えない。「医者は信頼できる」「身なりの良い人は怪しくない」という既存のデータを当てはめているだけであり、全くの未知に対する信頼とは質が異なりますよね。

・ここで、カントの思考が補助線として効いてくるんですよ。カントは著書『純粋理性批判』において、人間の理性を「経験に基づくもの(後天的=ア・ポステリオリ)」と、数学(1+1=2)のように「経験に基づかない純粋なもの(先天的=ア・プリオリ)」とに切り分けようとした。ちなみに、タイトルにある「批判(Kritik)」という言葉は、日常的な非難の意味ではなく、ギリシャ語の「分ける」という語源に由来するというのは有名な話です。

・これと同様に、信頼も「経験に基づく単なる安心」と「経験を完全に排除した純粋な信頼」に分けられるのではないか、という仮説が立つわけです。カントが理性を純粋な部分と経験的な部分に分けたように、私たちが「信頼」と呼んでいるものも、実は過去のデータに基づく「推測による安心」と、いかなる経験も介在しない「純粋な信頼」へと切り分けられるはずなのではないか、ということです。

・現実社会でも、登場したばかりの生成AIを使い始める時や、前例のない行動を起こす時など、情報や経験が極めて乏しい中で大きな決断(信頼)を迫られる瞬間がありますよね。

・たとえば、日本維新の会の吉村代表が高市総理と連立協議を行った際の出来事。長年の自公連立という前例から外れ、十分な検証データが揃いきっていない異例の状況下で、吉村代表はYouTube番組『ReHacQ』のインタビューにおいてこう語っていました。 「(高市総理は、将来的に)自民党が過半数行ったからと言って維新と「さよなら」するような人ではないと信じている。 もしそれが違ったなら、それは、私の判断が甘かったということです。」

・つまり、党の未来や党員の生活を背負って決断する連立合意という決断において、その根拠はただ「信じている」という、とても脆弱なものなんですよ。インタビューを見ていただけると分かりますが、吉村代表はあえて、自分の決断の根拠を脆弱なものにしようとすらしている。

・これってつまり、完全に合理的な理由や確証が全て揃うことはないと判断したんだと思います。そういう状況でありながら、まさに「相手を信じる」という決断を下したのだと言えるっすね。

・こういう、経験という手がかりが圧縮され、限りなくゼロに近くなった極限状態にこそ、人間の「純粋な信頼」の持つ大きな力が発揮される。前例がないからこそ、人はそこに強くベット(賭け)することができ、それが現状を打破する強力なレバレッジとして機能するわけです。

・例えば、ライト兄弟が人類初の飛行に挑んだ時、彼らには「人が空を飛んだ」という経験や前例は一切なかったが、航空力学という「論理」を純粋に信頼して飛んだ。経験がゼロであっても、論理に対する純粋な信頼が彼らを空へと押し上げたわけです。

・もっと例を出すと、17世紀に北米大陸へと渡ったフランス人探検家や毛皮交易商人(クーリュール・デ・ボワ)たちも当てはまります。彼らは言葉も通じない広大な森林地帯に単身で乗り込み、「多くの森林を探検し、ヨーロッパからの輸入品とインディアンが作る毛皮、特にビーバーのペルト(原皮)とを交換して、行く先々で、交易の仕方やその地に暮らすインディアンの習慣を覚えた。」(出典: Wikipedia「クーリュール・デ・ボワ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AF )

・まさに、過去の経験や安全網を度外視して未知の先住民のコミュニティに飛び込み、彼らの食べ物を口にし、風習を尊重することで「0からの信頼」を構築し、莫大な富を築いたわけですよ。

・また現代の例で言えば、人気YouTuberのBappa Shotaさんがエチオピアを訪れた際のエピソードも、これに通じるものがありますね。彼は「世界で最も危険な部族」とも呼ばれる現地のムルシ族のコミュニティに入り込み、彼らの風習に倣って、放牧前の牛から抜いた生の血をそのまま飲むという行動をとっていました。( https://www.youtube.com/watch?v=d7i1TUsxkfM )

・牛の血を飲んだから何か身体に良いことがあるとは、われわれの常識からは考えられない。しかし、自分の文化的な常識や安全網(経験)を捨て去り、圧倒的な未知に対して完全に身を委ねるという「信頼の飛躍(ベット)」を行うことで、言語や文化の壁を一瞬で取り払い、ゼロから信頼関係を生み出しているんだよね。そこには、過去の経験を度外視して対象に身を委ねるという跳躍が存在するわけです。

・他人を疑い深い人は、直接的な経験の範囲内でしか人を信じられず、この「純粋に賭ける(ベットする)」というレバレッジを効かせることができない。前例や確証がなければ動けないため、未知の領域に足を踏み入れることができなくなってしまうんですね。

・ただし、一見すると無謀な賭けに見える行動も、多様な経験を積んでいれば「類推(アナロジー)」や想像力を働かせることで、未知を信頼するための道具が増えていく。全く同じ経験がなくても、様々な場面で得た断片的な知識を組み合わせることで、未知のものを信頼する力が推論によって高まるわけです。

ちなみに…「信頼と裏切りの哲学」著者の永守伸年は、別の著書(「信頼を考える」)等で、カントは「すでにある秩序のことしか考えていない」旨の記述をしています。なので本当はカントを読んでも仕方なく、ヒュームあるいはホッブスを読むべきなのかもしれない。

同著書では、カントの道徳哲学は「約束という実践がすでに成り立っているところで、正しく行為するとはどういうことか」を教えてくれるものに過ぎない、と言ってます。つまり、カントが前提としていたのは「すでに秩序立てられた社会」なんだよね。

だから、カントは「そもそもどうして私たちが約束を結ぶことができるのか(=どうやってゼロから信頼関係や秩序が生まれるのか)」という起源の問いには答えてくれないわけです。

これに対して、ヒュームが考えていたのは「どのようにして約束という実践が成り立ち、社会の秩序が形成されるのか」という、まさに秩序の起源に関わる問題だった。また、お互いに無防備な「自然状態」からいかにして契約を結ぶかという、ホッブズの議論(ホッブズ問題)も同じベクトルの問いだよね。

だから、「0から1になる瞬間の信頼」を解明したい僕の目的からすると、本当はカントの『純粋理性批判』を読んでも仕方なく、ヒュームあるいはホッブズの原典を読むべきなのかもしれない、ということです。それでも読むけどね。

・なお、ここから先は飛躍するので読まなくて大丈夫ですが、この「未知への信頼」というテーマの究極的な行き着く先は、人間と自然との関係性なんじゃないかと思っているんです。

・私たちがコントロールできない最大の「未知」は、他者やテクノロジー以上に、この地球の自然環境そのものだからです。

・私たちが暮らしていけるのは、「巨大地震などの致命的な自然災害は(少なくとも今日は)起きないだろう」と、無意識のうちに自然を信頼しているからに他ならない。もし明日必ず壊滅的な災害が起きると知っていれば、誰も平穏な生活など送ることはできないですよね。

・東日本大震災の悲惨な経験が南海トラフ地震の確実な予測に直接役立たないように、圧倒的な自然の前では、人間の過去の経験は役に立たず、未知に対する無防備な状態に置かれるんです。どんなに備えても、自然は常に私たちの経験の範疇を超えてくる。

・例えば能登半島地震。元日に起きたあの震災に対して「元日は卑怯ですよ」と語った遺族の言葉が、今も強く胸に残っています。

・日本テレビの報道(https://news.ntv.co.jp/category/society/f6631c64590346378d8ff2192c661d07 )で紹介されていた角田貴仁さんという方のエピソードです。彼は珠洲市の実家に帰省中、家族水入らずで正月料理を囲んでいた午後4時すぎに被災し、妻と9歳の息子さんを亡くしました。

・ガレキの下で、息子さんは母親を助けようと、コタツごと押しつぶされながらも必死に音を鳴らし続けていたそうです。その悲痛な現実のなかで、角田さんは「元日は卑怯ですよ…」と語り、この先正月を祝うことはないと言いました。

・この「元日は卑怯だ」というやり場のない思いは、人間が自然のサイクルに対して、無意識の信頼を抱いているという証左だと思います。

・お正月くらい、家族が集まるめでたい日くらいは、致命的な災害は起きないはずだという信頼を、人間は知らず知らずのうちに抱いてしまっているんだと思います。

・なお、「人間が自然に対して信頼を抱いている」というわたしの直観は、哲学的には間違っています。本来、「信頼」と「裏切り」は必ずセットで存在するはずです。信頼という概念を深く考えるとき、それは裏切りを考えることから決して切り離すことができません。

・他者を信頼していれば、それが裏切られたときには強い失望や怒り、つまり相手への「不信」を感じるのが自然な感情のメカニズムです。

・少し哲学的な話になるけれど、この「不信」という態度は、単に「信頼が欠如している状態(ゼロになった状態)」を指すわけではないんですね。そこには、「本来ならこう振る舞うべきだったのに」という、相手に対する「規範的な含意(要求)」が込められている。相手がどのような状況や欲求を持っていようと、社会的な関係性のなかで「こういう仕方で振る舞うべきだ」という規範への強い関与があるわけです。

・だからこそ、裏切りに対して怒りや不信を表明することには、単なる感情の爆発にとどまらず、逸脱した相手を非難し、その不当な状況を本来あるべき姿へと「是正しようとする実践的な力」が備わっている。それが人間同士の信頼と裏切りのメカニズムなんですわ。

・しかし、私たちは地震などの自然災害が起きた際、「元日は卑怯だ」と自然のタイミングを呪うことはあっても、自然という存在そのものを憎んだり、自然に「裏切られた」と本気で絶望したりして、自然の振る舞いを「是正」しようとはしないですよね。

・裏切られたという感覚がないのであれば、そもそも人間は自然を本当の意味で「信頼」などしていなかったのではないか、という問いが浮上します。人間は自然を信頼しているのではなく、単に都合よく思い込んでいるだけなのかもしれない。

・なお、これは宗教における「神」との関係にも似ていますね。原始的な宗教であれば、祈りが通じなければ「神に見放された」と落胆したかもしれない。もっとも、現代の宗教では、天罰のような災いが起きても「神に裏切られた」とは考えず、自らの信仰心の不足など、自分たちの側に理由を求めるよう理論化されているように思います。

・自然に対する私たちの態度も、長い時間をかけてこうした「裏切られたと思わないためのシステム」として構築されてきたのではないだろうか、とも思います。

・ひとまずこれで終わり。お疲れ様でした。

日記488

トランプ大統領は「暴力的」だが「正直」だ

ベネズエラ大統領の斬首作戦やハメネイ氏の殺害など、トランプ政権が現在行っている対外的なアプローチは極めて暴力的だ。その振る舞いを見ていると、ギリシャの歴史家トゥキュディデスが『戦史』の「メロス対話」で描き出した「この世では正義は力が等しい者の間でしか問題にならず、強者は自らができることを行い、弱者はそれに耐えなければならない」という冷酷な力の論理を目の当たりにしているように感じる。

一方で、アメリカ国内に目を向けると、トランプ大統領はある意味で非常に「正直(=虚偽が少ない)」である(発信する情報の正誤はさておき)。エプスタイン文書などの情報公開や政府支出の削減、移民の締め出し、貿易赤字の是正など、アメリカ国民・支持者の赤裸々な欲求や本音に寄り添い続けている。政治的配慮や社会的建前を気にせず、自分の欲求に正直に振る舞うその姿は、ある種の「道具的合理性」に突き動かされていると言えるだろう。

理解可能性としての信頼、合理性

哲学者のデイビッド・ウェルマンは、道具的合理性との対比で、人が他者と関係を結ぶ際、自分の行為を他者にも意味の分かる「理解可能(インテリジブル)」なものにしようと振る舞う過程を「即興演技」になぞらえて論じている。「アメリカ・ファースト(MAGA)」という規範は、内側の支持者にとっては極めて「理解可能で正直(=信頼できる)」な振る舞いである。

しかし、この内側でのみ成立するローカルな規範は、国際社会という外側に対する普遍性(道徳性)を持たない。哲学者のアネット・バイヤーが指摘するように、道徳性とは「自分の利益を除外することが全ての人に対して等しく利益となる時にはいつでも自己利益を却下するようにデザインされたルールに従うこと」である。カントにおいても、道徳性とは自分だけの特別扱いを排し、普遍的なルールに従うことを意味する。

普遍性を欠いたトランプ政権の振る舞いは、結果として国家としてのウェルマンの言う「即興演技」を失敗させ、外側である国際社会との信頼関係どころか相互不信を帰結させてしまう。

信頼の前提となる「対等さ」と暴力の本質

そもそも、信頼関係を深めるための絶対条件として「対等さ」という重要な概念がある。近世ヨーロッパ哲学史(とりわけカント哲学)・現代倫理学を研究する永守伸年によれば、この対等さは、お互いの期待と応答が行き交う「双方向性」と、相手が何かをなす能力があるという「有能性」の2つの条件から成り立つ。そして、この対等さを維持するためには、「虚偽」と「暴力」を退けなければならない。

ここで言う「暴力」とは、単なる物理的危害にとどまらない。相手の裁量を認めず、応答の余地を根こそぎ奪い、自分の期待通りに振る舞うことを強いる「一方的な実力行使」のことである。斬首作戦や暗殺といったトランプ政権の振る舞いは、まさに他国の応答の余地を奪う行為であり、信頼の前提である「双方向性」を根本から破壊する(トランプ政権は、充分に対話の機会を設けたと言い張るだろうが、結末において言い逃れはできない)。メロス対話に見られる「強者の論理」から一歩踏み込んだ、「信頼における双方向性の明確な拒絶」として位置づけることができるだろう。

一方で、「虚偽」については、トランプ大統領はこれを犯していないというのがわたしの見解だ。繰り返すが、彼が発信する情報はたいてい間違っている。意図的と言ってもいいほどに間違っている。しかし、そこに嘘はない。彼は自分の信じること、言いたいことを発信している。誰かに何かを言わされているわけではない。それは、正直である。彼や彼の支持者にとっては、誰かの利害に動かされて自身の発言をコントロールしている、民主党議員の方がよっぽど嘘つき、ということになる。

道具的合理性が招く「ホッブズ的」な相互不信

トランプ政権が「自国の利益」という道具的目的にのみ従っていると国際社会が認識した場合、何が起こるか。先に言及したウェルマンの「即興演技」の前提に立ち返ると、哲学者のバーナード・ウィリアムズは、合理的な行為者であるためには「自分の行為を意味のわかるもの(理解可能)にしなければならない」という客観的な要求を負っていると指摘する。自国第一主義を貫き、普遍的なルールを無視する姿勢は、「他国から見れば」理解可能性を損なう行為である。

その結果、他国は常に「アメリカは自国が有利になれば、いつでも同盟や合意を裏切るだろう」と警戒せざるを得なくなる。「お前が先に武器を下ろせ」という終わりのない堂々巡り、すなわち相互不信、ホッブスの言う自然状態に陥るのだ。長期的には同盟国との協力コストが跳ね上がり、皮肉にも自国の国益そのものを損なう結果になりかねない。

対等さの幻想と『野火』が突きつける現実

先に述べたように、信頼関係は原理的に対等な関係を前提とするが、現実の国際社会には権力、軍事力、経済力における圧倒的な「不均衡」が存在する。

大岡昇平の小説・映画『野火』では、飢餓と暴力が支配する極限状態において、当初成り立っていた兵士間の役割分担や感情的交流(多層的な信頼関係)が崩壊し、自己保存のための凄惨な殺し合いへと変貌していく様が描かれている。信頼という複雑な織物は、「対等さ」というレバレッジのテコが機能している限りにおいてのみ構築できる。圧倒的な力の差や極限状態の前では、対等さの幻想はあっけなく崩れ去り、万人の万人に対する闘争というホッブズ的な自然状態に行き着くリスクを常に孕んでいる。

超大国アメリカと他国という圧倒的な不均衡が存在する中で、アメリカが道徳的規範(普遍的なルール)を投げ捨て、道具的合理性と暴力の行使に傾斜し始めた現在。対等な信頼関係を維持することは原理的に不可能になりつつある。トランプ政権の振る舞いは、国際社会をルールベースの秩序から、弱肉強食の「ホッブズ的な自然状態」へと力ずくで引き戻す行為に他ならない。

とはいえ、これまでは本当に平和だったのか

このように批判することは簡単だが、そもそも「国際社会のルールベースという秩序」の構築過程で何らかの暴力が含まれていなかったか、ということについても、わたしたちは注意して考えなくてはならない。

いま一度繰り返すが、社会状態はしばしば不均衡であり、およそ対等とは言えない。圧倒的な不均衡の状況下で結ばれる制度的信頼(=ルールや役割への信頼)は、一見すると平和な秩序を装いながら、実はその関係の中に組み込まれた不均衡を保存し、場合によっては強化する危険性を孕んでいる。

戦後構築されてきた「国際社会のルールベースの秩序」も、実は欧米諸国を中心とした権力や富の不均衡を大前提として成り立っていた。そのルールに従うことは、見方を変えれば「強者にとって都合の良い不均衡(構造的な抑圧・暴力)を固定化し、弱者に従属的な役割を演じさせ続ける機能」を果たしていたと言える。私たちが注意すべきなのは、これまでの秩序もまた、無菌状態ではなくそうした構造的暴力の上に成り立っていたのかもしれない、ということである。

この既存の秩序に対する異議申し立てに関して、障害者運動「青い芝の会」の横塚晃一による過激なアプローチが非常に示唆に富む補助線となる。「健常者が障害者を理解し、保護してやる」という一方的で不均衡な(しかし一見平和な秩序)を彼は拒否した。そして、あえて「敵対する関係の中でしのぎを削り合い」「葛藤を続けていく」ことの中にこそ、真に「私とあなた」としての対等な関係を構築する道があると考えたのである。

この視座を現代の国際政治に応用するならば、トランプ政権の登場や、中国やグローバルサウスなど反発する国々の動きは、綺麗事でコーティングされた「既存のルールベース(という名の不均衡の固定化)」に対するアンチテーゼとして読み解くことができる。

彼らの行使する力や暴力は手放しで容認できるものではない。しかしそれは、これまで最初から与えられていると錯覚させられていた偽りの対等さ(平和な秩序)を一度破壊し、「最初から与えられている前提ではなく、努めて達成されるべき理念」である真の対等さを模索するための、避けられないプロセスなのかもしれない。

日記487

浜岡原発のデータ不正から考える:私たちは何を「信じて」原発を任せているのか

地震データの意図的な書き換えが発覚

中部電力浜岡原子力発電所において、安全審査の根幹となる地震の揺れ(基準地震動)に関するデータが、実際よりも小さくなるよう意図的に改ざんされていたことが明らかになりました。原子力規制委員会はこれを「極めて悪質」と重く見て、本店への立ち入り検査を開始しています。

www.nikkei.com

今回の不正は、単なる計算ミスではなく、安全性を二の次にして審査を通そうとした組織的な姿勢が問われています。規制委員会は、中部電力に原発を動かす「ふさわしさ」があるのかという議論を始めており、最悪の場合、設置許可の取り消しに発展する可能性も否定できません。

民間企業による運営に限界が見えたことで、かつての福島第一原発事故直後にも浮上した「原発の国有化」議論が再び注目されています。国策民営という現在の仕組みを維持すべきか、あるいはフランスのように国が直接責任を持つ形に変えるべきか。その判断の境界線は、私たちがどこに安心の根拠を置くかにかかっています。

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日記486

・「嫌われる勇気」っていう本、知ってます?

・そろそろ日本人全員が読んだと思うので、私も読みました。面白い本ですね、これ。アドラー心理学自体が面白いと思うんですけど、結構、今の自分に刺さりました。

・今さら内容について書くことはないんですけど、これ、理論を知ったうえで実践するのが難しそうですね。なにせ現代の社会って、フロイト的な心理学が深く強く根付いているので。例えば以下のような批判が思いつきました。

1.シュミットの「敵」論

・アドラーは対立を「誤解」や「勇気の欠如」として処理しようとしますが、[カール・シュミット]に言わせれば、それはユートピア的な幻想に過ぎません。

・シュミットはアドラーの18歳年下ですが、アドラーが「赤いウィーン」で共同体感覚を説き、民主的な教育改革に奔走していた1920年代、シュミットはナチス台頭前夜の混乱の中で「友・敵」理論を練り上げていました。アドラーが目指した「水平的な協力関係」は、シュミットからすれば、まさに政治的実存を危うくする「自由主義的・人道主義的幻想」の最たるものとして映っていたはずです。 

・シュミットによれば、政治の本質は「友と敵の峻別」にある。自らの存在様式を否定しに来る「公的な敵(hostis)」を前に、「対話」を説くアドラー的態度は、実質的な武装解除、すなわち一方的な自殺的死を意味しかねない。

・ナチスの兵士たちが、自らの民族共同体(Volksgemeinschaft)に対して極めて献身的(高い共同体感覚)でありながら、その外側の「敵」を虐殺したというパラドックス。これをアドラーは「未熟さ」で切り捨てますが、政治の世界では、双方が「健康」で「正義」を信じているからこそ、衝突は実存的なものになるわけですよ。

・結局、全体主義下での「認知の修正」は、単なる現状追認(クワイエティズム)へと変質し、被害者に過剰な精神的負担を強いる。ヒットラーの行動さえ「主観的な善」として分析する目的論は、巨悪に立ち向かうための「義憤」というエネルギーを削いでしまうわけですね。

・これに対し、アドラー側は「私憤(支配欲)」と「公憤(社会的不正への憤り)」を分け、公憤は共同体感覚の発露であり社会変革のエネルギーになり得ると再反論します。

・しかし、これに対する再々反論はこうです。たとえそれが「公的な怒り」であっても、アドラーの枠組みでは結局「個人の主観的な意味づけ」の問題に回収されてしまう。

・シュミットの言う「公的な敵」は、こちらの公憤に共鳴するどころか、それさえも利用してこちらを抹消しに来る。感情の正当化と、政治的な防衛・実力の行使は、峻別されなければならないわけです。

・ということで、「私憤」と「公憤」との峻別を説いた時点で、アドラー心理学の射程が社会学的なものになかなか届きえないことを示唆しているわけですよ。

2.ポパーによる「疑似科学」の宣告

・さらに避けて通れないのが、[カール・ポパー]による科学哲学的批判です。ポパーは青年時代、ウィーンで実際にアドラーの教育相談活動を手伝っていた時期があります。 

・ポパーは、アドラー心理学を「反証可能性」を欠いた「疑似科学」の典型として厳しく指弾しました。

・アドラー心理学は「包括的すぎる説明力」を持ってしまっている。例えば、子供を溺死させようとする男も、救おうとして飛び込む男も、どちらも「劣等感と優越性の追求」で矛盾なく説明できてしまう。どのような行動も事後的に理論の枠内に収まってしまい、「もしXが起きれば、この理論は間違いである」という禁止条件がない。

・「禁止」を持たない理論は、科学ではなく文学的な解釈に過ぎません。政治的予測や制度設計のための「実証的ツール」としては機能不全に陥る、というポパーの指摘は、アドラー心理学を社会科学に応用しようとする際の致命的な急所となっています。

3.新自由主義としての「課題の分離」と構造的暴力

・より身近で、それゆえに痛烈な批判もあります。

・日本でも処世術として持て囃される、アドラー心理学の大きな長所である「課題の分離」は、一見すると非常に有能ですが、[ヨハン・ガルトゥング]の言う「構造的暴力」の視点が抜け落ちている。ガルトゥングは、アドラーの死後に活躍した平和学者です。

・「それはあなたの課題だ」という切り分けは、労働運動や社会運動の根幹である「連帯(ソリダリティ)」を解体し、個人を分断されたアトムへと還元する、[新自由主義]的な統治技術として機能してしまう、という批判です。

・アドラー側はここで、「課題の分離は孤立ではなく、自立した個人による協力(共同の課題)へのステップである」と再反論します。依存し合わないからこそ、健全な連帯が可能になるのだと。

・しかし、これに対する再々反論は痛烈です。現実の権力構造下において、「それはあなたの課題だ」という切り分けは、強者が弱者の苦境を無視するための、あるいは組織的不正を「個人の適応の問題」にすり替えるための、[新自由主義]的な免責の論理として機能してしまう。

・「トラウマは存在しない」という目的論も同様です。アドラー派は「いかなる境遇でも意味づけは選べる(エンパワーメント)」と再反論しますが、虐待や貧困、戦災といった圧倒的な「構造的暴力」の被害者に対し、「その苦しみはあなたが目的を持って選んでいる」と説くことは、神経科学的なリアリティを無視した「究極の二次加害」に他ならない。

4.議論の到達点

・もちろん、現代のアドラー派も無策ではありません。北米の[NASAP]などを中心に、アドラー本来の「社会活動家」としての側面に回帰する「社会正義」アプローチが強まっており、抑圧的なシステムの変革(アドボカシー)を治療目標に含める動きもあります。

・しかし、結論として、アドラー心理学は「市民社会」というソフト・パワーの領域(言葉が通じ、物理的生存が一応は保証された場所)では有効でも、戦争や絶対的権力格差というハード・パワーの壁の前では、その有効性は急激に低下せざるを得ない。

・結局、ぼくらに必要なのは、アドラー的な「個人のエンパワーメント(Agency)」を基盤としつつ、それをリアリズムや構造的暴力論で補完する、統合的な視座なのだと思います。

・「認知を変えれば世界が変わる」という主観的な物語と、「認知を変えても変わらない壁がある」という客観的なリアリティ。この二つの相克に決定的な結論が出ないうちは、その両輪を回さざるを得ないのだと思います。

日記485

・なんにもないです
・もう、なんにもないですね。自分にはもうなにもないです
 
1. 夢も目標もない
・ない。ひとまず中期的な目標だった、パリでの生活も終わりに差し掛かり、次に向かうところはそれから決めようと思っていたが、次にどうしようなど、ない。昨年の4月に立てた、この先10年間の中期的計画というものがあり、それを淡々と実施しているが、仕事の忙しさにかまけているとその火がぼんやりとしてしまって、虚しい気持ちになるばかり。
・新年早々、[中島義道]の「働くことがイヤな人のための本」を読み直した。人間はいつか死に、死んだら1億年間死に続け、さらにその1億年倍経っても死に続けるということが本当に大事だと思う。わたしが人生で何か残したものはわたしの死後永遠に、塵ほどの価値も持たないし、そのような厳然たる事実だけを考えて生きることで自分の人生が生き生きとしてくるはずだ。
 
2.時間がない
・家事にかまけていると何かをゆっくりやる余裕がない。朝から晩まで献立のこと、洗濯のこと、掃除のことを考えている。 自分が志す「丁寧な暮らし」は物質的な要素には支配されず、いかに時間をかけて丁寧に物事を行えるかにかかっているということに気づいていながら、それを実践するだけの時間がなく、生活がすさんでいる。
・わたしの貴重な時間はニュースや識者の発言を動画サイトで眺めることに費やされ、またそれによって新たに得る興味深い知識が多いために、これをやめることはできない。その割に、それらの知識が目立って役に立つことはない。興味の赴くままに動画を視聴しているのであって、問題解決の道具を意識的に集めているのではないのだから、当然のこと。
 
3.実績がない
・うすら10年間も社会で働いてきて、自分は社会に対して何かをやったという実績が一つもない。
・同時に、そんなものがあってたまるか、そういうものがあるから人間は業の道から外れることがないのだという気持ちがやまずにある。レジュメ主義に屈したくない、今の社会の形にうまくはまって褒められるような何かを作ってたまるかという気持ち。
 
4.   健康がない
・年を取るにつれて目はかすみ、内臓は疲弊し、頭は固くなり、腰は痛い。肉体の寿命がいくばくも残されていないのに、無駄なことをやっていたずらに時を過ごしている。
・同時に、エネルギーがない。何か良いことをしようということの前に、「何かをしよう」という気力がわいてこない。全て自分は使い果たしてしまった。それなのに実績が一つもないということは、もう何かを産み出すことはできない。そしてそんな自分を肯定するために種々のロジックを持ってくることも、疲れてしまってできない。ただ人生の流れに殴られて打ち倒されてしまうばかりである。
 
ふう。
 ・[野矢茂樹]の「はじめて考えるときのように」によれば、「ない」という否定は論理学的な面白さがある。「ない」という状態は観念的で、ことばの世界でしかありえないことだという。現実の世界では、「ない」というのは、「ない」という状態が「ある」ということしかありえないから。「ない」となった瞬間に、否定が存在するから。「部屋の中に机がない」というとき、「机のない部屋」という「否定の存在」抜きにその状態を認識することができないということ。
・同じような原理で、なにもかもがないという、all に関する否定は成立しない。「私が生きてきた人生には真実など一つもなく、すべては夢である」とか、「世の中に出回っている貨幣は全て偽物である」といった命題が成り立たないことは明白(本当にすべてが夢ならばそれが唯一の真実だし、全てが偽物だとしたらそのように出回っているそれのものが真の貨幣だから)。
・だからわたしが、~~がない、と列挙するとき、それは必ずなにか「あるもの」を足場にしている。現実の世界では、~~がすべてないというとき、それは条件付きであるはずで、「よくよく考えれば★★というものがあるものの、それは〇〇という条件を満たしていないため、わたしにとっては~~がないと言わざるを得ない」ということになる。
・わたしがなにかを「ない、ない」と列挙すればするほど、異なる主観的立場から、「そうは言っても★★はあるだろう」という反駁を受けることができる。異なる主観に対して「それは〇〇という(わたしなりの)条件を満たしていないのです」と再反駁することは時間の無駄であって、わたし以外の異なる主観がそう思うならそれでよい。
・もしかしたらいつかわたしも、「〇〇と思っていたがXXなのかもしれない」と思うときが来るのかもしれない。主観は時間とともに変化するものだから。

 

日記484

  • 日本にはかつて54基の商業用原発がありました(2009年末時点)が、現在、実際に動いているのは10基前後にとどまっています。 2011年以降、原子力規制委員会が設置され、再稼働には「新規制基準」という厳しい審査が必要になりました。
  • 政府は最近公表した「第7次エネルギー基本計画」の中で、2030年度には電源の20〜22%を原子力でまかなう方針を示しています。 もっとも、この数字は再稼働が順調に進んで多数の原発が再稼働し、長期運転や設備利用率の向上が実現することを前提にした数字です。実際には、新規制基準に適合した原発わずか17基のうち、再稼働したのは14基にとどまっており、さらに現在も運転しているのは11基前後で、残る3基(柏崎刈羽6・7号機と東海第二)は、認可は受けながらも再稼働できていない状況です。
  • 背景には、技術面だけでは説明しきれない事情があります。 「地元の同意が得られないために動かせない」というケースが非常に多いのです。 東京電力の柏崎刈羽原発は、その象徴的な例です。
  • 柏崎刈羽原発は、設備規模では世界最大級でありながら、2012年から7基すべてが停止したままです。 福島第一原発事故以降、再稼働をめぐっては、地域の期待と不安、国の方針、事業者の信頼回復が複雑に絡み合っています。
  • 最近の、柏崎刈羽原発再稼働のニュースで扱われているのは、少なくともわたしにとっては、信頼の問題にほかならないように思えてなりません。つまり、原子力発電所の安全性と運営という極めて重大な問題において、被信託者である国と東電が、県民の信頼を得られていないという状況です。
  • ここで中心となっている問題は、個人間の信頼(interpersonal trust)ではなく、制度や機関に対する信頼(institutional trust)についてです。
    • 信託者(Trustor): 県民、住民、地元自治体。
    • 被信託者(Trustee): 国(政府)、電力事業者(東電)、および県知事・県議会(地方自治の制度)。
  •  近い問題として、政府に対する信頼についてはいくばくかの論者がいます([Hardin] 2002; [Budnik] 2018)。また、制度的信頼が、個人間の信頼をモデルにしながらも、その責任と規模の点で異なることを認める論者もいます([Potter 2002]; [Govier 1997]; [Townley and Garfield 2013])。
  •  柏崎刈羽原発をめぐっては、被信託者(特に国と東電)の信頼性(Trustworthiness)の根拠が極めて脆弱であることを示しており、これが知事への責任転嫁という形で現れています。以下の動画を踏まえると、信頼を取り巻く問題は、次のように整理できます。

youtu.be

1. 法的根拠の欠如と信頼性の曖昧さ

  • 再稼働の法的根拠がないにもかかわらず、「地元の同意」が最後のハードルとされている点(03:05)は、信頼性の根拠が明確に正当化されていない(not well-grounded / not justified)状態を象徴しています。
  • 仮に、信頼がリスク評価に基づく([Hardin] 2002; [Gambetta] 1988b)と考え([リスク評価説])たうえで信頼が確立されるためには、再稼働には、リスクが十分に低いことを示す明確な証左や、(リスクをコントロールするために)法的拘束力のある取り決めが必要です。しかし、現状は、「安全協定」のような「任意の取り決め」(01:50)や「慣習上の制度」(02:58)に依存しており、信頼性の根拠が単なる期待や慣習に留まっていることを示唆しています。
  • 動画内での[出水薫]教授の指摘(02:50)が示す「錯覚」は、信頼が正当化されるための根拠が任意の取り決めに依存し、真の根拠(安全性と責任)が見えにくくなっている状態を指しています。

2. 知事への「責任転嫁」と信頼の対象のすり替え

  • また、出水教授は、県議会や国・東電が知事に判断を委ねる姿勢を「知事への責任転嫁以外の何物でもない」(08:44)と厳しく批判しています。
  • これは、[信頼応答説]の範疇として捉えることができるでしょう。本来、国や東電は、福島第一原発事故後初めて再稼働する事業者として、県民の「信頼」(依拠されているという事実)に対し、最も適切に応答する(すなわち、安全を最大限に確保する)動機を持つべきです(Jones 2012a; McGeer and Petit 2017)。しかし、実際には、その「応答責任」から逃れ、政治的決断という形で知事という個人に脆弱性(リスク)を押し付けています。
  •  この状況は、本来制度(政府・東電)が負うべき信頼性(trustworthiness)の責任が放棄され、個人(知事)に過度な負担とリスクが押し付けられている、制度的信頼の深刻な危機を示しています。
  •  
  • (後日追記します)

日記483

・まあ、それで、歴史について考えてるわけですよ。

・歴史について学ぶことが大事だということに、まずは同意してください。歴史について学ぶことは、自らの身体的経験を拡張することであるということにも、同意してください。

・だから、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言われるわけですね(クリシェ的ながら)。歴史を学べば自分の経験をはるかに超えられるにもかかわらず、それをしないのは愚かだということです。

・さて。ここで歴史といったら、共同体の歴史のことを考えます。共同体とは、人間が二人以上集まって何かしているということです。家族でも、宗教組織でも、王国でも、村でも、ある民族集団でも、企業でも、国家の集合体でも、なんでもいいです。

・わたしの主張は、「共同体の歴史とは、”結着”と”突き動かし”で構成される」ということです。これがわたしの、いまの歴史観です。このアーギュメントを検証していきましょう。

・「結着」とは、人と人を結び付けるものを指します。家族なら家族間の愛情、宗教組織なら信仰、企業ならミッションバリュー的なもの、その他例を挙げたらきりがないですね。価値観とか、信条とか、アイデンティティとか、言語とか…。一つの共同体が複数の結着要素を持っていてもいいし、一つでもいいです。

・共同体が形成される歴史とは、この結着要素によるFormationの歴史だ、とわたしは捉えます。あるきっかけがあって、人々がこの結着を持つと、共同体ができます。そのきっかけというのが、長い期間をかけてじわじわと作用するものである場合もありますが、比較的短い時間で突発的に起こる場合もあります。これが、「突き動かし」の要素です。こうした「突き動かし」を、歴史上のできごととして扱うことが多いのだと思います。

・この「突き動かし」が具体的に何なのかは、実はわたしもまだよく分かっていません。しかし典型的なのは、例えば8世紀にヴァイキングが西ヨーロッパにやってくるとか、フランスの王政に民衆が我慢できなくなるとか、ペリーが黒船に乗ってやって来たとか、そういうものであって、何か生存を脅かされるといった要素を多分に含むものが多いようです。

・さて。ある「突き動かし」を受けて、その場にいた一定数の人々が「結着」要素をもって共同体を形成し、どこかに向かいます。するとそれが新たな「突き動かし」となっていく。この繰り返しが歴史だ、とわたしは仮定します。

・ある共同体、家族/宗教組織/王国/村/民族集団/企業/国家の集合体の歴史は、それぞれ長さの違いこそあれ、ある期間からある期間まで結着していた人間同士の歴史です。これもなぜだかよく分からないのですが、時間が経過すると人間同士の結着は自然と緩まってゆく(=結着している人数が減る)傾向にあり、たとえば2千年前以上から存続する宗教組織というものがあるとすれば、それは何かの理由で比較的、結着が長く持っている共同体だと解釈することができます。歴史に残る以上、どの共同体の歴史もそれなりの長さを持つものですが、その中でも比較的長い時間、多くの人を結び付けた結着が、後世に多くの歴史的記述を残すのだということだと思います。

・このように考えてくると、共同体の歴史的事象を解釈するには、4つほどのポイントを押さえればいいということになります。

①最初に、主体を「突き動かし」たものは何か

②主体を「結着」させたものは何か

③どんな主体同士が「結着」したのか

④主体同士の「結着」を経て、どんな「突き動かし」が引き起こされたのか

・それで、わたしはいったいなぜ、こんな話を始めたのでしょうか?

・このブログに書いてないかもしれませんが、最近、信頼についての調査をしています。信頼というものが何かを調べていくうちに、どうもこの信頼というものには、人々を結着させる作用がありそうだと思うようになりました。

・この信頼というものは、結着要素としてわりあい新しく、かつ、それまでに誕生していた結着要素とは少し異なる性質を持つように思われます。

・通常の結着要素、愛情/信仰/ミッションバリュー的なもの/価値観/信条/アイデンティティ/言語と違い、「信頼」には「裏切り」の要素が不可分に含まれています。誰かや何かを信頼するということは、それに裏切られるというリスクを取る行為だからです(そうでないことに頼る行為を、「安心」と形容します)。

・人々が「信頼」によって結びついてきた共同体の歴史を調べることが、不信感だらけの国際社会、すなわちリベラルデモクラシーの価値観がすっかり揺らいでしまった社会の到来において、重要だと思うわけですよ。

日記482

・今日はちょっと気付きがあります。これまでも散々自然と人間の関わりについて、っていうのをやってきたわけですけど、自分が今まで志向してきたことっていうのは、自然と人間のより良い向き合い方みたいな話で、サステナビリティに関して考えを深めたいだとか、そういうことを言ってきたわけなんだけれども。

・ところが、今一度自分の心の底をさらってみたときに、おそらくいまの私の発想の根底は逆のところにあって。つまり元々考えていたことというのは、春山慶彦とか宮台真司とか、山に対して人々を誘惑する、山に行く人たちを折伏していくということを元々は考えていて、概ねその方向に同意しようと思っていたんだけれども、多分自分がやらなきゃいけないことはむしろ、その真逆だということに気がついたんですね。

・かつて人間が、資本主義的なエコノミクスにそぐわないという理由で断じてきた、切り捨ててきた、自然や山に対して、今更どの面を下げて山に入ってくるんだという、そういう気持ちの方が自分の中では強いということに気がついたんだね。

・それは実は、かなり今の世界のアクチュアリティとリンクをしていて、 2024 年の大統領選挙でトランプが再選したのは、それは、ラストベルトというところで忘れられた人々の票を取ったからだと思うんですね。彼らに対しての社会の薄遇というものにNOを突きつけたのが、トランプの再選の 1 つの要因であるとするのであれば、ぼくが今喋っているような感じで、都市型の経済が切り捨てていった田舎とか自然とか山とかっていうものに対して、もう一度目を向けなければならないという潮流に、ぼくは乗っかろうとしてたわけですね。

・んで、今日、はたと直観したのは、「山に入っていこう」「自然に入っていこう」「そうなるように人々を誘惑していこう、折伏していこう」ということでは、むしろいけないと思ったわけです。つまり、この資本主義のエコノミクスを、イリイチあるいは他の誰でもいいけど彼らが考えたように、資本主義のエコノミクスをリバイアサンだとするのであれば、その状況はこの先の 10 年で絶対に変わらないんだな。で、同じエコノミクスの論理でもって山とか自然に入って来られると、今そこに非常に希少に残っている自然とか山とかっていうのを破壊しかねないわけですよね。だから山へ誘惑する、折伏をするというのが、それがむしろ山の神聖性を破壊することにつながりかねないんじゃないかという批判を僕は警鐘として鳴らしたいと、そういうことなんですかね。

・ただもちろん、春山さんや宮台真司が言うこともまた真で、もう一度自然と繋がらないと、人間は、人間の社会は、もう限界まで来てしまっていると思う。このあたりのジレンマについて、過去に考えている人が必ずいるはずなので、その思考システムを学びたいと思います。

・ここまでの仮説と、研究に使えそうなことは脚注にまとめておきます。*1

・それで、そもそもの問題意識は、私の生まれそだった山に、電力会社が地熱開発で入ってきたり、用地が観光企業に買収されていることなので、こうした事象に対する「武器」になるような思考システムを知りたいわけです。もちろん、環境保護的な観点でかまびすしく何かを言うだけでは資本主義のエコノミクスに太刀打ちできないという前提があるんですね。一突きで、こうした資本主義的エコノミクスの論理や、リバイアサン的政治機構の論理を「仕留める」ような思考のシステムを、先人は開発していないだろうか?ということを問うていきたいんです。

・いくつか方策はあるみたいです*2。しかし、そのいずれもに、わたしはNOを突きつけたい。非人間アクターを意思決定に参加させることも、自然の権利擁護を主張することも、日本のアクチュアリティに照らせば、「ただのヤバい人」「なんか左翼的な人」になってしまいます。それはむしろ、わたしが実現したいことから、人々を遠ざけることになります。正面からは法制度を変えずに抵抗するという発想も、いつかは現在のリバイアサン的政治機構に飲み込まれてしまう。

・むしろ、例えば合気道のように、既存の社会システム(資本主義、政治機構)の力を利用して、おのずからつまづかせるようなやり方がないか。ないしは、もっと広い意味で大衆(自然に興味がある人もない人も)を巻き込んで大きなうねりを作り、いつの間にか自然を守っていた、というようなうまいやり方がないだろうか。

・それっぽい方法はこれまでもいくつかあったんです*3。しかし、「ESG投資・CSV・Circular Economy」が失敗に終わったことはここ5年の世界的潮流を見れば明らかで、グリーンボンドなど、もはやみんなが辞めたいと思っている。「官僚・政治家のレガシー欲」も、最近の日本では薄れてきているし、むしろ、わたしの山の場合には、官民連携で発電事業のために山に入ってきたという現実がある(これも政治家のレガシー欲でしょう。わずかに残ったレガシー欲が、どっちの方向に向いて暴走していくのかなんて誰にも分からないのだ)。「楽しさ・SNS映え」「戦術的“ネーミング”や“ストーリーテリング”」というのが、あまりにも弱く一過的であることも、すでに明らかになってしまった。もう誰も、ポケモンGoをやっていないでしょう?

・これらの施策と本質的に異なる、他の道はないだろうか?以下のような事例*4がヒントになるかもしれない。

・そもそも、山そのものの神聖性を保つ取り組みもあるでしょう*5。

・そのほか、小手先の手法*6はいくつかありそうですが、いずれも本質的な気がしない。

*1:


1. 仮説:端的な要約

  1. 自然との再接続を欲する必然

    • 「都市経済や資本主義ロジックから切り捨てられてきた山・自然へ回帰しないと人間社会が破滅する」という認識。(春山慶彦、宮台真司らも同様に“自然を取り戻せ”と説く)
  2. しかし“誘う”ことが逆に自然を壊す恐れ

    • 人々を山へ“折伏”することが、資本主義の消費対象として自然を抱え込む動き(観光開発、リゾート化)を招き、神聖性や希少性を破壊しかねない。
    • 「今更、どの面下げて山に入ってくるんだ?」という怒りや拒否感情もある。
  3. ジレンマの核心

    • 自然と繋がらなきゃいけない → でも資本主義の論理が変わらないなら、一気に押し寄せる人間が自然を食い尽くす危険がある。
    • どこかに「神聖性を守りつつ、必要な回帰を果たす方法」を模索したい。
    • こうした問題意識は、都市型エコノミーが切り捨ててきた田舎・自然を再発見する、2020年代以降の大きな潮流ともリンク。

2. 類似した議論・先行思考がある主な領域

(1) 深層生態学 (Arne Naess など)

  • どんな議論?
    • 人間中心主義を否定し、自然の内在的価値を強調。一方で「自然の重要性を訴える動き自体が、観光産業や資本の論理に利用されてしまう」と警戒する論調がある。
    • アルネ・ネスは「エコツーリズム」への懐疑心も示唆し、自然を“商品化”することが深層生態学の精神と矛盾しないか警鐘を鳴らしている。

(2) ソローやエドワード・アビーのような“自然賛美者”が抱えた皮肉

  • ヘンリー・D・ソロー (Thoreau)
    • 『ウォールデン 森の生活』で個人の内面変革を説いたが、その本が有名になりすぎ“ウォールデンの池”が観光地化し、“商業的自然体験”が増加。
    • → 自然に誘うほどに、人間が大挙して神聖性を壊す皮肉に直面。
  • エドワード・アビー (Edward Abbey)
    • 『デザート・ソリテール』で米国西部の荒野の美を描いたが、国立公園の過剰開発・商業主義(車道建設・ホテル乱立)を激しく批判。
    • その一方で“自然を語る”ほど観光客が増えるジレンマに苦しんだ。

(3) 先住民・山岳信仰との比較

  • 先住民が持つ“聖地”概念
    • 山や森を神聖なものと捉え、容易には人を入れない伝統的禁忌があり、それが自然保護にも繋がっていた例が世界各地にある。
    • 近代観光や資源開発が入り込むと、その神聖性が毀損され、先住民の怒りや絶望を生む。→ これは「今更、どの面下げて…」という感覚にも通じる。
  • 日本でも山岳信仰 (修験道など)
    • 一部の霊場は“誰でも行ける”形に解放され、観光地化したが、そのせいで荒廃した場所もある。
    • 「本来は聖域として、簡単に人が入るべきではない」という論点が存在する。

(4) イヴァン・イリイチ (Ivan Illich) 的な巨大システム批判

  • 何が似ているか?
    • イリイチは産業社会の道具や制度(学校、医療、交通など)を批判し「コンヴィヴィアルな道具」への回帰を訴えたが、呼びかけが大衆化すると、また巨大ビジネスに取り込まれる危険があると懸念。
    • 自然との再結合も、本質は人間の自立を取り戻すことだが、そこに資本主義が入り込めば“自然体験ビジネス”の拡張に終わってしまう。

3. 「研究のマップ」として有用そうな話題・文献

  1. 「神聖と観光」の相克を考える視点

    • エドワード・アビー: 『デザート・ソリテール』, 『モンキーレンチ・ギャング』 → 自然に人を誘いつつ、観光開発を辛辣に批判。
    • 先住民の聖地管理事例: 例えばハワイのマウナ・ケア山での天文台建設反対運動 → 観光や科学の名の下に聖地が冒される問題。
  2. 「資本主義が自然回帰も飲み込む」ことへの批判

    • イリイチ: 『コンヴィヴィアルな道具』 → 大衆的に魅力的な“自然回帰”がまた巨大産業に組み込まれる悪循環。
    • ヴァンデル・ベリ (Wendell Berry) などアグリカルチャー批判・田園回帰論 → 農村ブームが開発の餌食になる矛盾をしばしば語る。
  3. 「聖なる山」研究や環境人類学

     

  4. 「ブードゥー経済学」あるいは「カウンター開発論」

    • 無制限な経済成長を前提にしない、ある種のアンチ成長モデル(サージ・ラトゥーシュの脱成長論) → 自然保護を資本主義の道具にしない枠組みづくり。
    • 国内例: 田中優『経済成長なき幸福な未来』など → “観光客誘致”と“自然保護”の両立が難しい問題に言及。

*2:

1. 自然に“法的人格”を与える:権利の主体としての山・森

(1) クリストファー・ストーン (Christopher D. Stone), 「木は立つことができるか? (Should Trees Have Standing?)」(1972)

  • 要旨
    • 法的システムにおいて自然(山・川・森林など)に「権利能力」を付与すべきだと主張。
    • 「自然物が裁判で代理人を通じて訴えを起こせる」ようにすれば、企業の開発論理に対して“自然の側”も対等に法廷で主張できるようになる。
  • あなたの問題への示唆
    • 地熱開発や観光開発を止めたい場合、「山が権利主体である」という法的フレームワークを導入できれば、企業が「自然を単なる開発対象」とみなす論理に対抗する強い武器となりうる。

(2) “Rights of Nature” の憲法化・法制化 (エクアドル、ボリビア、ニュージーランド)

  • 事例
  • 論理
    • 開発 vs. 保護の構図を、単に“人間の経済利益”内の争いとせず、“自然そのものが権利主体”としたうえで開発を制限。
  • あなたの問題への示唆
    • 山に法的人格が与えられれば、東電や観光企業が一方的に資源を開発する際に「権利侵害」として訴えを起こす余地が生じる。

2. 「自然は商品ではない」:経済学の根本原理を否定する理論

(1) カール・ポランニー (Karl Polanyi), 『大転換 (The Great Transformation)』(1944)

  • 何を言ったか
    • 近代資本主義は“土地(自然)、労働(人間)、貨幣”を「自由に売買される商品」と見なす“フィクション”に基づくが、それは社会を破壊する。
    • “土地(自然)は本来商品ではない”という論理を掲げ、経済が社会・自然を従属させることを批判。
  • あなたの問題への示唆
    • 資本主義が山の地熱資源や景観を“商品の一種”として開発する論理自体がフィクションだ、と告発する際に有力な理論的武器。
    • 「山は売買可能な資源ではなく、人間の都合に還元できない共有遺産だ」という議論を裏付ける。

(2) セルジュ・ラトゥーシュ (Serge Latouche) の「脱成長 (Décroissance)」論

  • 要旨
    • 無限の成長を前提とする資本主義エコノミクスを根本から否定し、より小さな経済規模と地元共同体の保全を目指す。
  • あなたの問題への示唆
    • 地熱開発も観光企業の進出も“成長”の文脈で正当化されるが、脱成長の視点から「そもそも成長はいらない」論を展開すれば、開発の正当性を根底から揺るがせる。
    • 実際の政治・社会で活用するにはハードルが高いが、思想的には非常に強力なアンチテーゼ。

3. リバイアサン的国家権力に対抗する「新しい政治モデル」

(1) ブルーノ・ラトゥール (Bruno Latour), 「モノたちの議会 (Parlement des choses)」 や**“地球的政治”**論

  • 要旨
    • 科学技術や自然(非人間アクター)を“政治の場”に参加させる仕組みを提唱。
    • 『われらは決して近代人であったことがない』や『政治的なものへ上る自然』などで、自然を政治的交渉の場に引き込む発想が語られる。
  • 武器としてどう使えるか
    • 企業や政府が「科学的に地熱開発は安全」と言い張るだけでなく、山や自然(非人間アクター)の声を政治議題に登場させる仕組みを構築しよう、というアイディア。
    • 法制度化がやや抽象的だが、“自然自体を政治参加させる”というコンセプトは革新的。

(2) ジェームズ・C・スコット (James C. Scott), 『武器としての弱さ (Weapons of the Weak)』、『反穀物の人類史』 等

  • 要旨
    • 国家や資本の巨大権力に対して、地域住民や弱者がどのように抵抗し、独自の空間を守るかを考察。
    • 公式政治の外で“武器としての弱さ”を使い、権力の論理を崩す小さな抵抗を重視。
  • あなたの問題への示唆
    • リバイアサン的な国家・企業の政策に対し、地域共同体や隠れた抵抗によって山を守る戦略を、スコットの議論がヒントとして示す。
    • 大規模開発を防ぐために「正面からの交渉」だけでなく、住民の非協力や隠れたサボタージュ、コミュニティの暗黙の掟などで対抗するイメージ。

(3) 「自然の権利を擁護する党 (Green Party)」の政治実践

  • 事例: 欧州の緑の党(Green Party)などが法制化や地域自治で「自然の権利」を掲げるケースがある。
  • 武器としてどう使えるか
    • 選挙や地方議会を通じて、山岳地域の自治体が「この山は神聖不可侵」と条例を制定する例も考えられる。
    • それにより国政レベルの資源政策や企業開発を拒否する政治的カードを得る。

4. コモンズ(Commons)としての山:オストロムの枠組み

(1) エリノア・オストロム (Elinor Ostrom), 『コモンズの管理(Governing the Commons)』(1990)

  • 要旨
    • “共有資源(commons)”を地域コミュニティが自律的に管理する事例の研究。中央政府や資本に任せず、住民がルールを作り、資源を持続的に利用する。
  • あなたの問題への示唆
    • 山を地域コミュニティのコモンズと位置づけ、外部企業(東電や観光会社)が自由に参入できないよう「地域のルール」で縛る。法的に難しくとも、オストロムの示す成功事例で政治的・社会的正当性を主張できる。

(2) コモン・ローカル自治 vs. 資本の論理

  • 応用例: スペインやイタリア、南米などで、森林や水源を地域のコミュニティが伝統的な規則で守り、大企業の参入をブロックする事例がある。
  • 武器としてどう使えるか
    • 「ここは我々の伝統的コモンズであり、国や企業が勝手に開発できない」という論を打ち立てることで、経済論理を“正当性の土俵”から外す。

*3:

1. 合気道的アプローチ:既存システムの力を逆用する

(1) “儲かるから守る”ロジックの逆転:グリーンインパクト投資やESG

  • 概略
    • 従来の“環境保護はコスト”という見方を、「自然資本に配慮するほうが長期的に利益を生む」という投資家や企業のロジックにすり替える。
    • 世界的にESG投資(環境・社会・ガバナンスを考慮)が広がり、自然を破壊するプロジェクトはリスクが高い→金融的に敬遠される傾向も少しずつ強まっている。
  • 合気道的ポイント
    • あえて資本主義の“利益”や“株価”に訴える形で、自然破壊は短視眼的・リスクが大きいと喧伝する。
    • 企業や投資家が自ら「自然を守らなきゃ」となるロジックに引き込み、結果的に環境保護が実現する。

(2) トレーサビリティ・ブランド戦略:守らないと企業イメージが下がる

  • 概略
    • 消費者意識が高まる中、「自然を破壊して作った製品」と判明すると企業イメージが大幅に下がり、売れなくなる。
    • 逆に、“自然と共生”をうまくブランディングすれば、企業は宣伝効果を得られ、継続的な利益を確保できる。
  • 合気道的ポイント
    • 自然保護を宣伝に利用してもらう形にすることで、企業自体がリソースを投下→最終的に環境が守られる。“綺麗事”ではなく、企業のマーケティング戦略として成立させる。

(3) 官僚・政治の功名心を利用する

  • 概略
    • リバイアサン的政治機構は「成果」を重んじる。そこに「自然を保護したほうが、国際的な評価が上がる」「国内で支持が広がる」という文脈を巧みに植え付ける。
    • たとえば、世界遺産登録やRAMSAR条約(湿地保全)、ジオパーク指定などを使い、政治家や官僚が“自然保護を推進した偉業”としてアピールできるような形を作る。
  • 合気道的ポイント
    • 政治家の名誉欲や観光庁の政策目標を逆手に取り、結果として自然破壊ではなく“保護”が「偉業」となるよう誘導する。

2. 大衆を巻き込む:いつの間にか自然を守っていた

(1) “楽しさ”や“快感”を勘所に置く

  • 概略
    • 人々は「環境保護しよう!」という正論だけでは動かない。しかし、「面白そう」「SNS映えする」「ワクワクする」といった感覚があれば大衆が集まる。
    • 例: 森林浴ブームやエコツーリズムが“格好いい・健康に良い”と思われるよう仕掛ければ、結果として森や山が守られる流れができる。
  • 合気道的ポイント
    • 大衆の「娯楽欲・健康欲」を活用して、知らず知らずのうちに自然保護に参加している構図を作る(ただし観光開発が行き過ぎないバランスが鍵)。

(2) “共有体験”プロジェクト:SNS連動型の草の根活動

  • 概略
    • みんなで「山のゴミ拾い」をゲーム化するとか、“山の湧き水でコーヒーを淹れるイベント”をSNS発信して盛り上げるなど、遊びを混ぜながら山を大事に思う習慣を広げる。
    • 企業スポンサーを付け、そこに広告効果を感じてもらうことで資金が集まり、プロジェクトが拡大。
  • 合気道的ポイント
    • 大衆は“自然守りましょう”という説教だけでなく、イベントの楽しさやSNSでの承認欲で動く。結果として山が清潔に保たれる・乱開発が抑制されるシステムを作る。

(3) 大衆商品への“マイナス外部性を減らす”付加機能を付与

  • 概略
    • たとえば電気・エネルギー消費でCO2排出を計算し、ポイントや割引を与える仕組みが普及すれば、人々は楽しみながら“省エネ・再エネ支持”を実行する。
    • 山の保護活動費を含めた宿泊プラン(エコ宿泊税など)を導入し、客は「自然に貢献している」と思い、自治体は観光税を環境保全に使う。
  • 合気道的ポイント
    • 大衆が普段の消費行動を変えなくても、「山を傷つける外部性」に対価を払う形を自然に組み込む。結果的に山を維持する資金が自動的に集まり、観光企業もWin-Winと感じる。

3. “アウフヘーベン”のような既存理論・事例

(1) マイケル・ポーターの「CSV(共通価値の創造)」

  • 概略
    • 競争戦略論の大物が提唱。「社会的課題(環境保護など)を解決することが企業の利益にもつながる」と説くことで、従来のCSRより一歩進んだ“社会課題の市場化”を肯定。
  • 合気道要素
    • 企業が自然保護を行うほどブランド向上・コスト削減(長期視点)が見込めるので、山保護に投資するのが賢い経営だ、と誘導するロジック。

(2) “Cradle to Cradle” / “Circular Economy”

  • 概略
    • ウィリアム・マクドナーやエレン・マッカーサー財団が提唱。「廃棄物ゼロ」「循環型経済」によって環境破壊を減らしながら経済を回せる、というビジョン。
  • 合気道要素
    • 破壊を前提としない成長モデルを提示し、企業は“循環”に乗らないと取り残される、と煽る。大衆も「循環型はカッコいい」と感じて自然を選択する。
    • 結果として、“環境を守りながら経済も回っている”ことになり、山や森林資源が軽率に荒らされにくくなる。

(3) 全体としての「バズワード化」活用

  • 概略
    • “SDGs”が今や企業や行政のバズワードになり、多くの人が「SDGsって大事」と言っている(実態はともかく)。
    • そこへ「山の神聖性」をあえて絡め、“SDGsゴール○○達成のために…山を守ろう”と展開すると、巨大システムが逆に協力者になる可能性も。
  • 合気道要素
    • 本気の革命論を言わずに、主流の政策キーワードや企業PRのフォーマットに乗り、こっそり自然保護を進める。

*4:

## オレゴン州の土地利用計画
- **1973年採択の土地利用計画法**: オレゴン州は1973年に土地利用計画法を採択し、都市成長境界線(UGB)を設定して都市の無秩序な拡大を防ぎ、農地や自然環境の保全を図っています[^1][^3][^7]。
- **ポートランドメトロポリタン地区の取り組み**: ポートランドでは、市民参加型のまちづくりを通じて土地利用計画が進められており、環境保全や交通機関の統合が重視されています[^5][^7]。

## フィンランドの合意形成
- **自治体間の協力**: フィンランドでは、自治体間の協力が重要視されており、自治体組合(kuntayhtymä)を通じて土地利用やヘルスケアなどの分野で協力が行われています[^2][^4]。
- **地域政策の展開**: フィンランドでは、1960年代から地域開発諮問委員会を設置し、地域政策が進められています[^8]。また、ヘルシンキ首都圏では土地利用や交通に関する大規模なインフラ整備が進められています[^6]。

[^1]: https://www.pref.okinawa.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/019/251/h28futenma-21_0601.pdf
[^2]: https://jichisoken.jp/file/monthly/2009/04/onojima.pdf
[^3]: https://www.city.ginowan.lg.jp/material/files/group/34/h28keikakusakutei_6.pdf
[^4]: https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/international/spw/report/1504_finland.pdf
[^5]: https://lab.smout.jp/area_foreign/america/portland/history
[^6]: https://www.econ.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/wp/wp-content/uploads/2025/01/c278874e9cddc8d1d6393502c52277ac.pdf
[^7]:https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/keikaku/portland_houkokusyo.files/portland_houkokusyo.pdf
[^8]: https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiji/12/0/12_133/_pdf/-char/ja
[^9]: https://www.minto.or.jp/assets/pdf/urban/u54_08.pdf

*5:

  1. **「反・観光」の聖域づくり:熊野のルール**
    - **熊野の取り組み**: 熊野では、特に「奥の院」や「玉置神社」などの地域で、観光客が自由に立ち入ることができない領域が設定されています。例えば、玉置神社は「神様に呼ばれないとたどり着けない」とされ、正式な参拝にはガイド付きで行うことが推奨されています[^2]。これは、観光客の流入を制限し、地域の神聖さを守るための取り組みと考えられます。
    [^1]: https://www.pref.wakayama.lg.jp/chiji/message/201510b2.html
    [^2]: https://www.veltra.com/jp/special/deep-in-japan/totsukawamura/
    [^3]: https://lucy.ne.jp/bazubu/kumanokodo-37245.html
    [^4]: https://www.wakayama-kanko.or.jp/spots/detail_515.html

*6:

1. “都市住民を利用する”逆転:都会人が“消費するのは自然保護自体”

(1) カウンター観光:保護活動を“商品”にするが、観光にはしない

  • 内容
    • 例えば1週間の“山保護キャンプ”を高額商品として売り出し、参加者は山を守る作業に従事する。その収益がそのまま山の保全に回る。
    • これをスローガンやSNS映えでなく、“本気の奉仕”としてブランド化する。快楽や短期的ブームに留まらないよう、ハードな作業や思想性を強調し、“本気の人だけ来る”形にする。
  • どう違うか
    • ある意味“商品化”だが、“自然保護”を消費する形になっているので、観光リゾート開発とは真逆のマネタイズ。
    • 参加者が増えても、“山を壊す”のではなく“山を護る”労働に従事し、経済的にも地域が潤う。

(2) “クラウドファンディングで山を買う”ムーブ:私有地の逆利用

  • 内容
    • 都会の支持者から募金を集め、山を丸ごと買い上げて「資本から切り離す」。所有権をコミュニティベースに管理し、観光利用を制限。
    • 日本でも「島を買う」「森を買う」プロジェクトが散発的にあるが、より大規模にやる可能性。
  • どう違うか
    • 資本主義ルールのなかで“買う”行為は合気道的逆転:「山を守るためにわざわざ市場から買う」。外部企業が手を出せないよう先に所有権を確保する。

2. コミュニティを越えた“大衆”をどう巻き込むか

(1) 「お祭り・祝祭性」を復活させる

  • 内容
    • 昔は神社仏閣が山の神を祀る“山開き”や“火祭り”などを行い、地域住民と都市部の一部信者が集う祝祭があった。そこでは自然を崇敬する感覚が当たり前だった。
    • 近代に失われた祝祭を再興し、現代人を巻き込む。ただし、大量観光客を呼ぶのではなく“選ばれた参加”にする。
  • 合気道的ポイント
    • 社会全体が“自然保護のためのイベント”とは言わずに“伝統的祭り”として盛り上がり、いつの間にか山が守られている。参加者に強力な体験を与え、開発反対の根拠を自然に共有。

(2) 「日常の中に山の存在を浸透させる」:暮らしの再編

  • 内容
    • 大衆が生活する上で、山の恵み(湧水、山菜、木材など)を日常的に使う仕組みを作る。産直所などでも都会の消費者に安定供給し、「山から離れられなくなる」ようにする。
  • 合気道的ポイント
    • 大衆自身が山を破壊するような開発を嫌がるようになる(自分たちの大切な食・水の源を守りたい心理)。
    • これにより地熱や観光企業の進出が「私たちの水源にダメージ」など実害として認識され、大衆が反対運動に自然と参加する。

日記481

・今公園に来たら、割と明るいところでみんな走ってますね。それで何かといえば、自分がやるべきことについて、物事が一足飛びには進んでいかないということは当然理解していて。だからゆっくり、ちょっとずつやっていくしかないんですけど。

・本当に地道にね。毎日少しずつやっていくしかなくて。それはもうもちろん頭でわかってることなんだけど。でも、アクチュアリティですよね。自分が何か価値のあるものを生み出しているとか、そういう手触りが少しでもあればいいんですけどね。もちろんそのために努力をするっていうのが大事なんだけど、それは大前提なんだけどさ。だからそういう手がかりになることがちょっとでも見つかれば、それはすごく嬉しいですし。なんか、物事をちゃんと正面から押してるような実感があれば嬉しい。プラス、同じようなこと考えてる人がいたら嬉しいなぁ、とは思いますけどね。それが都合のいいことに、このパリにいたりしたらそれは最高だし。

・ただ、そういうのは求めていると与えられるというか、そういうのを求めていることが大事っていうことですよね、なんかしら言ってればあるかもしれない。

・一つ言っときたいのは、自分が最初に思い描いたパスみたいなものが、そんなにまっすぐ全部行くわけはなくて、物事を調べていったらいろんな迂回をしてたり、思わぬ要素が出てきたりとか、そういうわけじゃないですか。なので、自分の中で考えてるロジックみたいなものは思った通りにはいかないと、十分承知をしておく必要あるだろうなとは思います。いろんなファクターが入り組んでたりとか。でもそれは諦めないで、一つ一つほどいていくっていうことです。それはできるし、やろうよということだよね。

・で、サステナビリティの話については、とっかかりとしてはブルントラント報告を読むんだけど。でも多分、仮にブルントラント報告が何かの出発点だとすると、もうなんか、初めから間違ってたっていうことになるんだろうなという直感*1をね、読んでもいないんだけど、覚えていて。読んでみないとわかんないんですけどね。で、さっき言ったように自分が思い描いているロジックみたいなのが本当はあるはずで、それが一本道じゃないって話を今したんだけど、そもそもその一本道のロジックってのがいかなるものかっていうのを自分の中では持っとかなきゃいけなくて、それは考えて出てくるもんじゃなくて、本を読んで物事を知ってくっていうことですよ。

・今日の収穫の一つは、ウルリヒ・ベックの「危険社会」を読んでもいいなと思えたことです。ただ、「社会学ベーシックス」のベックの章で十分なんじゃないかという気もしてきています。

・何ていうのかな、あれって結局、私が読んだ「社会学ベーシックス」のたかだか10 ページの入門解説を読んで理解したことだけど、あれって結局、現代の諸問題とあえて言いましょう、それは地球環境の問題とか家族とか失業ですけど、そういう問題が全て、「現代化」によって起きていることである、と言ってるんですよね。で、現代化とはインディビジュアル化だと、そういうことなんだよね*2。

・つまり、社会学ベーシックスの著者というか、ベックのパートの執筆者に言わせれば、当然、ベックが言ってることのうちの地球環境の問題だけを捉えていると、ベックのすごみっていうのを見失うことになる、と。で、問題は、地球環境の問題とか失業の問題とか、家族の問題っていう一見バラバラに見える様々な問題を、同じ近代化の論理で断じて見せたところにベックのすごみがあるっていう。それはおっしゃる通りなんだと思うんですよね。そこも見失っちゃいけないと。そうは言っても読んでないんでね、何とも言えないんだけどさ。

・何が言いたいかというと、必ずしも自分の問題意識の範囲外のところにも手が及んでいて、かつそうであることがベックの価値だという風に言われると、ちょっと手に負えないっていうか、自分が手を広げることがなかなか難しいなーって思っちゃうんですよね。研究って、そういうものかもしれないんだけど。つまり、誰かの思想の全部を理解するってよりかは、どこか一部に焦点を当てることが重要なのかもしれない、とも思うんだけどね*3。

・ただ、それについて読んだことは非常に良かった。いつか生きてくるでしょ、それは。もしかしてそれは、ただ「社会学ベーシックス」のたかだか 10 ページなのかもしれないが、いつか生きてくるかもしれません。

・それで、問題はですよ、どっちかっていうと自分自身の、アクチュアリティの問題。昨日の埼玉は八潮の道路の陥没問題とか、ああいうの見るにつけ、安宅さんの言ってることは胸に迫ってきますよね。

・結局、インフラだよ。「ローカルコミュニティ」がどうとか、「地方創生」とかさ、「ウェルビーイング」がどうとか、「企業誘致」とか…。 OECDとかそういう、偉そうな機関がよく、地方の活性化について綺麗事言ってますよね。あれじゃダメですよ。インフラですよ*4。そうなんだよ。前に、OECDの地方活性化(みたいな)部署の人と、日本の地方の問題について話した時に「インフラ維持が一番の問題だと思う」と言ったら、「ずいぶん渋いこと言うね」と言われたのを思い出しました。いやいや渋いとかじゃなくて、マジで問題だから。

・なんか、「地域に根差した発展のあり方」みたいなそういう、教科書的というか、お題目は分かりました、と。で、一方で、目の前でいま、道路に穴が開いてんだぜ、と。これは非常に胸に迫るものがあって、キワキワの切迫感の一つだよね*5。

・そういう意味では、安宅さんの問題意識は 2 つあって、そのうちの「環境・地球との共生」っていうところにぼくはフォーカスをしているんだけれども、「人口減少の社会をどう回すか」という、もう一つの問題意識・命題にも乗っからなきゃいけない。

・同時に乗っからなきゃいけないような気もしてきています。切迫性で言えば、そっちの方が大きくて。そういう意味ではあれかもしれないですよ。そういう、ウルリヒベックがリスクについて、「それはいつか目に見えなくなる」という風に論じたように、この地球環境のリスクとか、あるいは人口減少社会のリスクとかそういうものもですね、もしかしたら目に見えなくなってたかもしれませんね。それがたまにいう形で表象化するのであるという風な捉え方もできる、と。

・何が言いたいかというと、安宅さんが言ってる「人口減少社会をどうハンドリングするか」って話と、「地球環境問題をどうハンドリングするか」って話を、いみじくもベックがですね、ベックの話ばっかしますけど、ベックが現代の諸問題を同じ論理で断じたように、もしかしたら安田さんのこの 2 つの命題もどこかで根っこがあって、そこにアドレスすることができるのかもしれないという、そんなことも少し考えられますよね。

・あえて無理くり、そこに共通項を見出すとしたら、それは何でしょうね。地球環境の問題および人口減少社会の問題の一つは、もしかして「責任」ということかもしれませんね。

・それか、責任、の逆ですけど、つまり無責任ってことなのかもしれないが、地球環境も人口減少社会も、自分が何とかなればいいだろう、みたいな、そういう考えがありますよね。

・埼玉で道路は陥没したかもしれないけど、うちの周りは大丈夫でしょ、みたいな。あるいは、地球環境は大変だけど、あと 10 年ぐらい持てばぼくはもう大丈夫です、みたいな、そういう考えですよ。だから、もしかしたらぼくがアドレスするべきは、責任とか、そういうところなのかもわかりません。

・それはそれで、いい話です。なぜなら少し問題解決的なアプローチになるから。そういうね、安宅さんの言うような地球との共生、あるいは、人口減少社会のハンドリングという、何がしか、問題課題を解決しなきゃいけない*6。

・それで、一つのやり方として、ハンス・ヨナスの本*7も読んでないからよくわかんないけど、責任というものをもう少しみんなで負いましょう、みたいなことを勉強するのはいいかもしれない。

・ただし、もう少し、具体的な問題を解いてる感じが同時に欲しいんだよね。たぶんそれは、自分が正しい努力をしているという、そういう保証が誰かから欲しいのかもね。

・さっき、「同じようなことを考えてる人がいたら嬉しい」みたいなことをしゃべったけど、それも結局そういうことでしょうね。自分がやろうとしてることに共鳴してくれる人がいるということがほしいんでしょう。それはきっと、 N = 1 よりも N = 2 の方が確からしい、と。同じようなことやってる人がいたらいいなあと。いうことかもしれないですね。

・それは待っててもしょうがないっていうかね。自分で今できる努力をしなきゃいけないっていう、ただそれだけなんだけど。だけど。もう一つには所属の問題があって。

・つまりね。そういう諸問題を自分が扱いたいと考えた時に、どこかにすでにできている社会的な団体、ある一つの矜持を持ったようなそういう人々の群れの中に身をおくっていうのは、もしかしたら良いことかもしれない。ですね。ただ、そこの方法論が、よくわかんないっちゃわかんなくて。

・そういうところに属さないで、一人で貫けるんだったら一番いいですよ。でも多分無理でしょう。現実的に。一人でいながら、同じようなことを考えてる人を探しに行くみたいな、それができたらいいけどね。

・難しいんじゃない? 今の段階では…。この感じって何に似てるんだろう、所属するコミュニティが欲しいとか、同志が欲しいとか、この感覚って何に似てるんだろう?

・それが分かれば、どうしたらこれが解けるかっていうことを究極的に考えられるんだけどさ。なにかしら類似する問題があればいいんだけど…*8。

・これに対しては読書猿さんがもう答えを出してるかもしれなくて。 独学することそのものが孤独なことであるということについて、もしかしたら彼がすでに何かを考えてるかもしれなくて、そこにヒントがあるかもしれない。ね、あるといいなぁ。と思うけどね。

・こうやって孤独を噛みしめることがもしかしたら大事なのかもしれないし。でも、端的に言えば、よく頑張ってるよねって思いません? よく頑張ってるよね。

・孤立無援ですよ、正直こんなん。しかしわからん。「コテンラジオ」の例とか、深井さんの例とか考えてみると、もしかしたら、何かいい方法があるかもしれない。わからん。オープンな読書会みたいなものに参加するとか。それも難しいんだけどね。

・それか、何か環境を変える、つまり、似たようなことを考えてる人がいるかもしれないような環境に身を送っていうことだと思うけどね。

・なんかしら、やりようがねえかなぁとは思うんですけどね。どうなんでしょう、わからない。わからない。わからないというのはどういう意味でわからないかというと、一つには、もう少し恥をかく必要があるかもしれなくて。だって孤独であると思い込んで、グチグチ悩んでいるということが、本当は一番楽なのかもしれないですから。そう思いません?

・あとは、「海士町」だよね、結局は。海士町的な人間がですよ。海士町的な人間って、何言ってるかわからないと思いますけど、海士町に住んでるような人たちですよ。要するにそういう人が世の中にはいて。海士町的な人と言うのは、あんまり世の中の常識にとらわれず、自分の正しいと思うことを追求できる人、しかも社会の課題を自分が解決するという、責任感のある人ですよ。そういう人と出会いたくて…。

・つまり、何を考えてるかというとね。去年の夏に友人と一緒に本の翻訳をやろうとした時のことを考えてて。そこにはなんか、プロジェクトが走ってるような感じがあったわけですよ。

・で、もう少し言うと、それをテコにして外部の人と繋がるような、そういうチャンスがあったんだよ。それはすごくいいことだったと思う。

・究極言えば、もう 1 回学校に入るとかさ。そういうことなんだけど、なんかもう少し、有機的な人のつながり方みたいなのが、この現代の社会においてありえないのかなと思ってて。 学校に行くことだけが解決策って、選択肢が貧しすぎやしませんか?

・ありえると思うんだけど。なんか、SNS ですらできなかったような、人と人とのつながりって意味で。なんかそういうものってないのかね。これだけテクノロジーが発達してて、もしかしたらSNSあたりが限界なのかもしれないが、なんか社会システムとして、ぼくが言ってるようなことが可能になる空間を、もう少し実装した方がいいと思いません?*9

・人と人とのつながりという意味で、いみじくもベックが言うようにですよ、インディビジュアリティが深まっていって、人々がどんどん孤独になっていって、1個の労働資本になっていくみたいな、そういう社会においてですよ。誰も何ていうか、それを止める手だてというか、そこにソフトに抗うような手立てというものを考案してこなかったのか、っていうのは気になります。

・それの一つの形が SNS ですって言うんだったら、それはいいですよ。それで、もう少し多様な、人と人との繋がりのあり方みたいなのが。なんか生み出されてないの?? とは思いますね。

・ベックが「危険社会」を書いてから、うすら40年くらい経つわけでしょ。この間、人類は何もしてこなかったの? そんなわけないよね。そう信じたいよ。

・それで何かというと、とにかく、同時代を生きる人間で、同じような問題意識を持った人がいてほしいなぁと思うね。ただ、これ言い訳かもしれないけど、仮に今ぼくが言った同じような問題意識を持つ人がいるとしたら、日本にいる確率が高いと思う。

・なぜなら、繰り返し言うように、問題意識の一つは人口減少社会なんですよ。で、人口減少社会のフロントランナーはどう考えて日本なんですよ。

・そうでしょ。加えて、当然日本には、守るべき素晴らしい自然があるのであってね。それは世界中、どこもそうかもしれないけれども、似たような問題意識、景色や自然を守りたいという気持ちを共有してるのは、日本人である可能性が高いですよ。

・問題なのは、あえて言いますけどぼくみたいに漢気のあることを考えてる人がどこまでいるかっていうことです。自分で言うのもなんですけど、なかなかいない存在だと思うんすよ。あえて類型化すれば、利他的であることは確実で。

・自分でそんなこと言うかよっていう話はあるんだけど、利他的で未来志向で。ハンスヨナスが言うところの責任を持ってる、そんなやつがどんだけいるんだよっていう。

・なんかちょっと本当にぼく最近絶望してるんですけど、特に日本でね、そういうこと考えてる人、いて欲しいんすよ。だってさ、そもそも、なんかみんな、自分のことしか考えてねーよ、マジで。そうじゃない? 

・なんか急に感情的になりますけど、でもさ、みんな自分のことしか考えてないよ。地球をどうするんだとかさ、日本っていう国をどうするんだとかさ、そういうこと、真面目に考えてるやついねえのかよ。

・なんで誰も真面目に考えてねえんだよって、なんか怒りが湧いてきたな。なんで誰も真面目に考えてねえんだよ、と。みんな自分のことばっかじゃん。すごい強烈な怒りが湧いてきた。

・さっき責任という話を出しましたけれども、そういうことだな。自分で勉強して社会に語りかけて行かなきゃいけない。なんしかの方法で。自分に灯ったこの種火をですね、消すわけにいかないですよ。

・だから頑張ろう、っていう。おれ、頑張ろう!っていうことなんですけどね。やめずに続けてみるっていうことでしょ。今のところ続けられそうだし。ちょっとずつやっていって、で、それを多少なりとも見える形にするんだろうね。

・他の人にちゃんと見せられるような、何かの形にして、それをきっかけにやっていくっていうことなんだと思います。それはどうしたらいいかはよくわからない。

・けど、そこに少しのズルさがあって、他人の注意をひかなきゃいけなくて、それはちょっとやりたくねえんだけど、時にはそれをやらなきゃいけない時が来るかもしれない。

・だけど、結局本を読むっていうこと以上に今できることはないのかもしれないですね。 それをね、共通の本を読んでるって事がもしかしたら一つ繋がりの何かになるかもしれないし。それ以外無理かもしれないし。

・結論。変わらず本を読もう、と。虫のように、本にメモをして、本に付箋つけて、それしかねえだろう、ということです。いずれにせよ、さっきみたいに怒りが湧いてきたのは非常に大事なことかもしれない。

・そう思いません? ね、大事だよ。なんかそれは、argumentを持つ上でも大事だし。心底から怒りが湧いたっていうのはなんか結構大事なことのような気がする。

・腹立つよね、マジで。特にさ、日本では高い教育受けた人が無責任じゃん*10。高い教育を受けた結果の能力とか、知識ね。ものを知ってる奴が社会のためにそれを生かさないで、自分が稼ぐことばっか考えてんだよ。そうだろう。

・で、またさ、賢いこと言うんだよ。賢いことを言って、いろいろ言い訳すんだよ。あいつら。あいつらって特定の個人を想定してるわけじゃないんですが。自分の力を社会のために使おうとか、自分たちみんなの未来を良くしようみたいなさ。そういう方向で力を使おうとする奴が少なすぎる。自分だけがよきゃいいっていう、そういう奴らが多すぎるよ。で、これは非常にいい話で。なぜなら過去に必ず、同じ種類の怒りを感じた人がいるはずだから。

・絶対いると思うんだよね。おれはもう、その人と仕事をする。過去にいた人、誰だかわかんない、誰だかわかんないけど、その人とおれは仕事をする。

・今だったらもう、安宅和人ですよ。あの人はちゃんと、自分に蓄えた知見とか知識とか、あとは何だろうな、経験とか、あの人自身が当然頭がいいわけで、自分の能力とか、そういうものをフルに使って「風の谷」を作ろうとしてる、とぼくは信じてます。

・ね。で、安宅和人的な人が必ず、人類の歴史の中で何人かいるはずなんだよ*11。

・だから歴史に学び本を読めば、本の中でそういう人たちと出会えるかもしれない。人間の身勝手、「マス」とあえて言いましょう。大衆と書いてマスとあえて言いましょう。マスの身勝手さ、そういうものをに対する、怒りとか折伏でもいいんですけど。これを隠すことなく、どこかに書き留めている人、そして怒りの気持ちで持って自らの考えを。社会へと。伝えていった人たち、そういう人の本が読みたい。

・なんかそういう思想の断片が伺いしれるような。そういうものに私は出会いたい。そうだよ。今のこの時代にいないんだったら、書を通じてつながるしかないよ。そういう人たちと自分が間違ってないってことを再確認するしかないですよ。

*1:

  • サックス, W. (Ed.) (1992). The Development Dictionary: A Guide to Knowledge as Power. Zed Books.
    • 「サステナブル・ディベロップメント」という言葉が、国際政治や企業の都合で変容していく過程を批判的に論じる論考が複数含まれる。特にウォルフガング・サックス自身が、ブルントラント報告後の“開発”言説の矮小化を論じている。
  • Rist, G. (2002). The History of Development: From Western Origins to Global Faith. Zed Books.
    • 持続可能な開発 (Sustainable Development) は「開発」概念の延長であり、そもそも大企業・先進国の既得権益を温存する枠組みとして利用されたという批判が詳しい。
  • Clapp, J., & Dauvergne, P. (2005). Paths to a Green World: The Political Economy of the Global Environment. MIT Press.
    • 国際環境政治の視点から、サステナブル・ディベロップメントが“グリーンウォッシング”や「大企業の便宜に合わせた形」で取り込まれた事例を紹介。

こんなことを調べてまとめてくれている人もいる。

note.com

一般財団法人 地球・人間環境フォーラム

www.gef.or.jp

*2:ベックだけでなく、アンソニー・ギデンズやジグムント・バウマンなども「近代社会で人々が自己責任を負わされ、従来の共同体が崩壊する」プロセスを指摘している。

バウマンの代表的著作

  • Bauman, Z. (2001). The Individualized Society. Polity Press.
    • タイトルの通り「個人化(Individualization)」が進み、従来のコミュニティが崩壊・変容していくプロセスを論じている。
  • Bauman, Z. (2000). Liquid Modernity. Polity Press.
    • 「液状化した近代」において、安定的な社会的紐帯が溶解し、人々が自己責任で流動する宿命を負わされると指摘。

*3:

1. Wayne C. Booth, Gregory G. Colomb, and Joseph M. Williams, The Craft of Research

  • 概要
    シカゴ大学出版から出ている、研究デザイン・論文執筆の指南書。英語圏で広く読まれている。
  • 該当部分
    • 序章や第2部「Asking Questions, Finding Answers」で、研究テーマを選ぶ際に「自分の関心・問題意識を核に置き、いったん焦点を絞って文献を読む」ことを強調する。
    • 「すべての文献を読むのは不可能なので、問い(Research Question)との関連性が高いものだけを優先する」「むやみに領域を広げず、研究計画の段階で範囲を明確化する」などのアドバイスをしている。

2. Umberto Eco, How to Write a Thesis (邦訳『ウンベルト・エコの論文作法』)

  • 概要
    イタリアの作家・思想家ウンベルト・エコが、自身の大学での指導経験を元に書いた論文執筆ガイド。
  • 該当部分
    • 初期章において「すべての文献を渉猟し尽くすのは不可能。まず“研究に直接関わるもの”を確定せよ」という趣旨を明確に書いている。
    • エコは“資料を網羅すること”と“論文の主題を深掘りすること”は別物であり、「論文の問いに対して必要十分な範囲」を見極めることが最初にやるべき作業だと説く。

3. Gerald Graff & Cathy Birkenstein, They Say / I Say: The Moves That Matter in Academic Writing

  • 概要
    アカデミック・ライティングにおける「対話型の思考」を教える名著。米国の大学でよく使われる。
  • 該当部分
    • 各章で「学術的議論とは“すでにある会話”に参加すること」と説明し、すでにある会話(文献・論争)を全部拾うのではなく、“自分が応答したい主張・論点”にフォーカスせよ、と述べている。
    • 網羅的リサーチよりも、自分が問題にしたい論点(They say)を特定し、その一部に自分の発言(I say)を接続するのが効果的、とする。

4. Diana Ridley, The Literature Review: A Step-by-Step Guide for Students

  • 概要
    文献レビューの方法を解説した大学院生向けガイドブック。
  • 該当部分
    • 「リサーチクエスチョンの設定→そのクエスチョンに直結する文献のみ焦点を当てる」プロセスを繰り返し提唱。
    • “闇雲な総花的文献探し”は時間と労力を浪費しがちで、むしろ戦略的に絞り込むほうが学術的にも推奨される姿勢だと強調している。

5. John W. Creswell, Research Design: Qualitative, Quantitative, and Mixed Methods Approaches

  • 概要
    質的・量的・混合的な研究デザインを解説する米国発の名著。
  • 該当部分
    • 研究計画書を書く段階で、「問題意識と研究目的に即して文献範囲を絞る」「関連しない周辺領域の文献を網羅しようとしても焦点がぼやける」といった留意点を示している。
    • あくまでリサーチ・デザインに即した最小限必要な文献に注力するのが効果的、というのがCreswell流のアドバイス。

6. “研究方法論”全般の実務的ガイド:日本語編

  • 佐藤郁哉『フィールドワークの技法──問いの立て方、考え方』(新曜社, 2002)
    • 社会学や文化人類学のフィールドワーク論だが、序章で「研究テーマを無限に拡張せず、自分の関心に応じて焦点化する必要性」を強調。
  • 安宅和人『イシューからはじめよ』(英治出版, 2010)
    • アカデミック指南書ではないものの、問題解決型の思考法として「イシュー(論点)を絞る」「インプットもイシューに即して行う」ことが生産的と説いている。

*4:総務省 (2014) 「公共施設等総合管理計画の策定にあたっての指針の策定について」

  • 「今後、人口減少等により公共施設等の利用需要が変化していくことが予想されることを踏まえ、早急に公共施設等の全体の状況を把握し、長期的な視点をもって、更新・統廃合・長寿命化などを計画的に行うことにより、財政負担を軽減・平準化するとともに、公共施設等の最適な配置を実現することが必要」。

国土交通省 (2013) 『インフラ長寿命化基本計画』

  • 「一方、厳しい財政状況下において人口減少や少子高齢化が進展する将来を見据えると、維持すべきインフラの機能の適正化を図るとともに、官民が連携してそれらを賢く使うなど、戦略的に維持管理・更新等を行うことが重要である」。

*5:

  • 宇都宮浄人(全国市町村研修財団/市町村職員中央研修所の研修資料 等)
    • 自治体研修で、道路・橋梁・下水道の老朽化と財政難が深刻とされ、「目新しい地域活性策より足元のインフラが崩壊する」という問題提起がされている。
  • 大西隆『広域計画と地域の持続可能性』(学芸出版社, 2010) 第3章
    • 3-2 人口増加から機能維持への転換
      安定成長期の地域活性化:「人口増加」「発展」「浮揚」/改正まちづくり3法の下での地域活性化/21世紀の活性化=「維持」=「持続可能」

*6:

  • ジョナサン・ボストン(2017) Governing for the Future: Designing Democratic Institutions for a Better Tomorrow Palgrave
    • 政策決定に未来世代の利益をどのように組み込むか、倫理と法制度の観点から論じている。
  • スティーヴン・ガーディナー(2011) A Perfect Moral Storm: The Ethical Tragedy of Climate Change Oxford University Press
    • 気候変動に対する政策は倫理議論と不可分という立場から、各国政府の行動・不行動を批判的に分析。
  • マリオン・ウルドカン(2016) Environmental Ethics for the Long Term Routledge
    • 「環境倫理の視点を政策設計にどう反映させるか」を具体的に論じる。

*7:

ハンス・ヨナス『責任という原理』

  • テクノロジーが巨大化した時代、人類は未来世代や地球に対して責任を負う必要がある、と主張する。

*8:類似する問題を扱うために、まずはここで自分の悩みを構造化して要素を取り出してみる。

(A) 主体・目的・障壁の三要素

  1. 主体(自分)

    • 強い問題意識や関心(「人口減少」「自然との共生」「サステナビリティ」など)を持っている。
    • しかし一人では手に負えない、あるいは他者との対話・協働が必要と感じている。
  2. 目的(何を得たいか)

    • 「同志」との繋がり、コミュニティへの所属感、共通の課題を分かち合う仲間を得る。
    • そのコミュニティを通じて、より大きな問題解決へ踏み込みたい・視野を広げたいなど。
  3. 障壁(なぜ実現が難しいか)

    • 検索/マッチングの問題: どこに自分と同じ問題意識の人がいるか分からない。
    • 不確実性の問題: そもそもそういう人やコミュニティが存在するか、見当がつかない。
    • コスト・リスク: アクションを起こし、恥をかいたり、試行錯誤が必要になることへの心理的抵抗。

(B) 構造のキーワード

  • “マッチング”: 同じ課題や価値観を持つ者同士がどうやって出会うか。
  • “公共財 or クラブ財の形成”: 一人の力では作れない“集団的成果”を得るには、複数人が協力しなければならない。
  • “情報の非対称性”: 自分が「こういう意欲がある」と周囲に発信していないと、相手も気づけない。逆も然り。
  • “信用・リスク分担”: コミュニティに所属することでリソースや責任を共有するが、初期段階ではお互い手探り。

似た構造をもつ、別分野の問題例

2-1. スタートアップ投資やVC(ベンチャーキャピタル)の問題

  • 構造:
    • スタートアップ側は「資金・ネットワークを提供してくれるVC」を探すが、どのVCが自社のアイデアを理解・評価してくれるか分からない。
    • VC側も「将来性あるスタートアップ」を見つけたいが、玉石混交で見つけにくい。
  • 共通点:
    • お互い“同志”になり得るが、探し方・見つけ方が難しい(マッチング問題)。
    • どちらが動くにせよ、声を上げないと接点が生まれない。
  • ヒント:
    • 投資の世界ではピッチイベントやアクセラレーターなど、公開の場を設計して両者を引き合わせる仕組みを作っている。
    • “同志探し”の構造においても、定期的にオープンな場を作り、興味をもつ人を呼び込むというのは類似のアプローチになり得る。

2-2. “二次会・アフターパーティ”効果 in 国際会議

  • 構造:
    • 大きな国際学会やカンファレンス本体ではフォーマルな発表や議論が多いが、本音・深い情報交換は二次会やアフターパーティなどの“緩い空間”で行われる。
  • 共通点:
    • フォーマルな場だけでは本当の“同志”を見つけにくい。むしろ肩の力を抜いた雑談でこそ、価値観が合う人を発見する。
  • ヒント:
    • コミュニティ所属を求めるのに似ていて、公式チャンネルだけではなく、緩いセカンドチャンネル(雑談タイム)を意図的に設けるのが有効かも。
    • SNSでの正式投稿より、雑談・ラフな発信が共感を呼ぶかもしれない。

2-3. 国際関係論の“同盟形成”

  • 構造:
    • 国家が同盟を組む際、「相手がどんな利害や安全保障観を持っているか」「どこまで協力できるのか」が不確実で、簡単には組めない。
    • 同盟は互いに信用を前提とするが、仮に裏切られたらリスクが高い。
  • 共通点:
    • 大げさに見えるが、“同志関係”を築きたいが相手を信頼できるか分からない問題、リスク分担をどう調整するか問題など構造は似ている。
  • ヒント:
    • 国際政治の文脈では、小さな合意・協定(Confidence-Building Measures)を積み重ねて、相手を徐々に信用するプロセスを踏む。
    • 個人同士やコミュニティでも、「まず小さいプロジェクトで一緒にやってみる」→信頼が育ったら本格的な同志関係に進む、という段階的アプローチが有効。

2-4. オンラインマッチング(恋愛・婚活)

  • 構造:
    • 恋愛・婚活アプリでは、相手のプロフィールや趣味から「合いそうだ」と判断し、メッセージ交換を経て会う…と段階を踏む。
    • しかしプロフィールが実態と合わない可能性もあるし、そもそも合う相手がどこにいるか分からない。
  • 共通点:
    • 同志探し = “仲間を見つけるマッチング”も、恋愛マッチングの構造と似ている。お互い公開情報だけでは不十分で、実際に交流してみないと分からない。
  • ヒント:
    • 恋愛マッチングでは「共通のキーワード」「価値観診断」「安全機能(通報など)」といった仕掛けがある。
    • 同様に、興味キーワードや理念を可視化するツールがあれば仲間探しも進むかもしれない。

2-5. 電子回路の“接触抵抗”問題

  • 構造:
    • 部品同士を繋ぐには端子をはんだ付けしたり、コネクタを介するなど“接触面”が必要。しかし接触抵抗やノイズなどが発生するので、確実な“インターフェイス”設計が求められる。
  • 共通点:
    • 異なるデバイス(個人)同士を繋ぐには何らかの“インターフェイス”が必要。そこが噛み合わないと電流(コミュニケーション)が流れず、接触不良を起こす。
  • ヒント:
    • “接触不良”を少なくするには規格化されたコネクタ(共通言語や共通ツール)を用いる。個人的にはSNSやコミュニティ・プラットフォームがそうした役割を果たすかもしれないが、さらに新しい仕組み(標準コネクタ)を発明してもいい。

ベンジャミン・フランクリンの「公共図書館」(Library Company of Philadelphia)

(1) どのような経緯・狙いだったか

  • 18世紀前半のアメリカ: 高価な書籍を個人でまかなうのは難しく、情報・知識にアクセスできる人が限られていた。
  • フランクリンの発案: 複数の人が資金を出し合い、「定期購読料を納めて本を共有する仕組み」を作ろうと考えた(当初は"subscription library"に近い形)。
  • 実際のシステム: 各会員が年会費や株式のような出資をし、その資金で本を購入。会員は借り放題で読める。非会員も閲覧だけならできる、といった形をとった。

(2) なぜコミュニティづくりに役立ったか

  • 知識の共有による帰属意識: 「みんなで本を持ち寄る/買い揃える」ことで、同じ本を読み、意見交換する場が生まれ、仲間意識や学習コミュニティが自然に形成された。
  • コストの削減: 一人で高い本を買う必要がなくなり、分担することによりアクセスコストを下げる。結果として、知識へのハードルが下がり、人々の孤立を防ぐインフラに。
  • “公共財”としてのプラットフォーム: やがて寄贈や出資者が増え、図書が充実し、図書館は地域の知的中心になった。個人が閉じこもらずに集う場所として機能。

この発想を応用・拡張した他の事例

(A) 19世紀の「力学研究所(Mechanics' Institutes)」(イギリス)

  • 概要: 産業革命期のイギリスで、労働者や職人らが自主的に勉強するための講義・図書室・実習スペースを設置。
  • 公共性・共同出資: 地元の有志(工場経営者や労働組合、知識人)が寄付や会費で成り立ち、参加者は自由に本を読んだり、実技講義を受けたりできた。
  • コミュニティ形成: 単なる書籍共有を超え、会議室・談話室を備え、勉強会やイベントを通じて「学び+社交」コミュニティとして発展。

(B) 日本の「私立図書館」や「文庫運動」

  • 江戸~明治期: 私財で蔵書を公開する庄屋や豪商、個人の蔵書を地域住民に貸し出す仕組み(“文庫”)が点在。
  • まちの本棚的文化: 近代図書館法以前に、市民が自主的に書物を集約して利用する集まりが存在。これが公立図書館や学校図書館の基盤となった。

(C) 現代の「シェア型スペース」「コミュニティライブラリ」

  1. Little Free Library(北米発祥)
    • 街角に小さな本棚(小屋)を設置し、住民が自由に本を出し入れして共有する。
    • 規模は小さいが、これを拠点に住民同士が繋がる効果がある。
  2. Book Café/コミュニティカフェ
    • カフェ内に大量の蔵書を置き、客が気軽に読める・交換できる場を作る。「本好きが自然に集い、交流が生まれる」。

(D) 「アウトドア装備図書館」や「お試し家電シェア」

  • アウトドアギアの貸し出しプログラム
    • 山岳会やNPOが、初心者が高価なギアを買わずに済むよう、共同で装備を購入・保管して貸し出すシステムを用意している。
    • 一緒に登山やキャンプに行く仲間がそこで見つかったり、貸し出しの受け渡しが交流のきっかけになったりする。
  • お試し家電シェア
    • 地域コミュニティや企業内で「高い機材を共同で保有し、必要なときだけ借り合う」。
    • “図書館”モデルを家電・工具などに拡張した形。やはり利用者同士でノウハウや情報交換が進む。

共通するポイント:共有資源の創造とコミュニティ

  1. 費用やリスクを共同で負担

    • フランクリンの図書館やMechanics' Institutesでは、一人では負担しきれない書籍費用を分担した。
    • 現代でも高価な道具や機材を、複数人で共同所有・運営する事例に繋がる。
  2. 場(プラットフォーム)を用意し、人が自然発生的に集まる

    • 図書館や共有スペースが“物理的な拠点”となって、人と人とがつながりやすくなる。
    • SNSでも同様のことは可能だが、リアルな場のほうが一層コミュニケーションやコミュニティ意識を醸成しやすい。
  3. 知識交換・学習コミュニティとして機能

    • みんなで購入した本を読み合い、読んだ本について話し合う → 自然に「共同学習」の場へ。
    • 家電やアウトドアギアを共有する際も、「どう使うか?」の情報共有が進むほど、コミュニティが強固になる。
  4. 「自分はこれだけ投資したから、同じように使ってもらいたい」という当事者意識

    • 共同出資なので、“ここは自分の図書館”という愛着が湧き、そこに出入りする人との関係もポジティブになりやすい。
    • その結果、「同志」感が生まれる。

こうした例が示すもの

  • フランクリンの公共図書館をはじめとする共有プラットフォーム構想は、(1) リソース(書籍など)を一人で抱えず、(2) 分担してコストを下げながら、(3) 交流や学びを促す仕組みを生み出した、と言える。
  • まったく同じ構造を、本以外のモノ・情報・体験にも適用できる → そこから他の多様な事例(Mechanics' Institutes, Little Free Library, ギア共有など)が生まれた。
  • 結果的に「コミュニティへの所属」「孤独やコストの問題解消」「同志との繋がり」などが自動的に得られる。

具体的アイデアに繋げるなら

  • 自分が欲しい/共有したいものを核にミニ図書館(またはギア・情報共有の仕組み)を立ち上げる → それを開放・公開する → 似た価値観の人が自然と集う、というフランクリン式発想を応用できるかもしれない。
  • 「仲間が欲しい」「コミュニティ所属を探している」なら、まずは自分が“図書館”的な仕組みを作ってしまうのも一つの道。物理空間でなくても、オンラインでも良い。

まとめ

  • ベンジャミン・フランクリンの公共図書館構想は、個が抱えるコストやリスクを分担しつつ、人々が自然に集う場を形成するモデルであり、多くの類似発想(メイカースペース、シェアハウス、道具ライブラリなど)を後世に生んできた。
  • こうした「共用の資源を作って開放する」動きは、多くの場合にコミュニティや同志を求める課題を解くヒントとなる。自分が提供できる資源や魅力的な“場”を作ってしまえば、そこに共感・共通ニーズを抱える人が集まりやすいから。
  • したがって、もしあなたが「コミュニティが欲しい」「同志に出会いたい」と願うなら、何かしらの“共有資源(図書/道具/スキル/イベント/情報)”を公開し、みんなで使う仕掛けを作るのが有効かもしれない。

*9:

“コミュニティ再生”や“ソーシャル・キャピタル”研究

  • ロバート・パットナム『孤独なボウリング』(Bowling Alone)で、「近代化で共同体が壊れ、ソーシャルキャピタルが低下」しているという議論11。
  • 日本で言えば、山崎亮などがまちづくりやコミュニティデザインを提唱している。

山崎亮 (2012)『コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる』中公新書、面識経済

*10:

知識人批判: 丸山眞男, 安冨歩, 白井聡など

  • 丸山眞男は戦前〜戦後にかけて「無責任の体系」を繰り返し論じ、日本の知識人が主体的に動かない実態を批判13。
  • 近年では安冨歩『原発危機と東大話法』や白井聡『国体論』などが「エリートの無責任」を強く糾弾し、そこに怒りが見られる.

海外での“知識人の責任”論

*11:

バックミンスター・フラー (R. Buckminster Fuller, 1895–1983)

    • 幾何学・建築・デザイン・未来学などを横断しながら、「ジオデシック・ドーム」「ワールドゲーム」といった大胆な構想を提案し、地球規模の資源配分や持続可能性を追求。
    • 「地球をひとつの宇宙船 (Spaceship Earth) と見立てて人類みんなで運営しよう」というメタ視点が大きな影響を与えた。

E.F.シューマッハー (E.F. Schumacher, 1911–1977)

    • 『スモール イズ ビューティフル』を著し、「巨大な経済成長路線ではなく、人間の規模に適した経済・技術を目指す」というビジョンを提示。
    • 開発経済・環境・哲学をまたいだ議論を展開し、当時としては革新的な「中間技術 (Intermediate Technology)」の普及に尽力。

 ムハマド・ユヌス (Muhammad Yunus, 1940–)

ワンガリ・マータイ (Wangari Maathai, 1940–2011)

    • ケニアでグリーンベルト運動を創始し、環境保護と女性の地位向上を統合する社会運動を展開。ノーベル平和賞を受賞。
    • 政治学や生物学など複数の学問領域を踏まえ、グラスルーツ運動をグローバルに発信した。

ケイト・ラワース (Kate Raworth, 1970–)

  • 何をした?
    • 『ドーナツ経済学』(Doughnut Economics)を提唱し、従来の成長至上主義を超えて「環境限界内で人間のウェルビーイングを最大化する」経済モデルを提示。
    • アカデミック研究・国際機関での経験を軸に、各国の政策立案やコミュニティ・実践者とも協働している。
  • 安宅和人的な点
    • 経済学を学問的に再構成しつつ、実際の地方自治体(アムステルダムなど)で「ドーナツ経済」実験を行うなど、ビジョンと実践を繋げる動きが特徴。

小林武史 (音楽家・ap bank 設立者, 1960–)

    • 音楽プロデューサーとして大きな成功を収めつつ、環境保護や復興支援などを行う非営利組織「ap bank」を設立。
    • ライフスタイルとエコを融合したイベント「ap bank fes」を主催し、実践レベルで環境や農業支援を行う。

小野泰輔 (元熊本副知事, 1974–)

    • 外資系コンサル出身という高度な知識経験を持ち、熊本県副知事として地方行政に奔走。熊本地震の際、情報ハブを整備しデジタル技術を駆使した支援を指揮。
    • journal.ridilover.jp

春山慶彦 (YAMAP創業者)

    • 登山アプリ「YAMAP」を立ち上げ、テクノロジーを活用して山と人を繋ぎ、山岳地域の活性化や安全登山の仕組みを生み出した。
    • 地方の観光振興や環境保護との連携も模索。

日記480

・やっぱり最初は argument を作んなきゃいけなくて、後にそれアカデミックなものにしていくっていう、そういう順番が良くて、そういう意味では、ぼくはまだargumentを作ってないんだよね。自分が扱おうとしていることの範囲があまりにも広すぎるんで、これどうにかしなきゃなと思ってて、うまいこともう少し、確信をついたところにまとめていかないと。まとめるというか、もう一つキーワードが欲しいなっていうところですよね。

・今ぼくが思いついたことは、信頼と不信にはスケールがある、と。バリエーションつまり、カラースケールのようなスケールがあって、そこにはバリエーションがあると。

・何かに対する中立的な立場から、それに対する懐疑的な立場、それからそれを積極的に信任しない、不信の立場。そして恐怖の立場。あるいは恐怖を越えて攻撃的な立場。そういう段階があるということが、きっと社会学の中で研究されてますよね、

・それは分断とか、そういうものを研究してたら多分そうなると思う。今起きてる事っていうのが、どういうものなのかっていうのを知りたいというのはもちろん前提条件としてあるんだけど、先の未来として、繰り返しになるけど、自分がどういう問題を解決したいか、解決しなきゃいけないかっていうことを考えなきゃいけないですわね。

・で、先週はやっぱり安宅和人さんの議論に全面的に乗っかって、自分が社会的に解決しなきゃいけない課題っていうのは、もう、人口減少社会のハンドリングと、自然との共生、しかないっていう言い方をしたんだけれども。

・そこはもちろん全部乗っかってもいいとも思うけど、自分なりにやっぱり再解釈する必要はあるよね。自分の中では一つは、やっぱり山ですよね。自分が生まれ育った山に対して、東電が地熱の開発で入ってきてるっていう事がどういうことなのかっていうのはちゃんと理解しなきゃいけないのと、事象としてどうなのか、っていうのを理解しなきゃいけないのと、プラス、なんていうのかな。

・山が将来どうなるんだろう、ってのを考えた時に、別に山自体は山であってどうにもならないんだが、それを人間がどう、浅ましくも活用していくかっていうことに関しては、やっぱり一定考えたいことで、多分そこから広がっていくと、日本全体として自然とどう向き合っていくかっていうことにつながっていくと思うんだよね。

・今意外と重要なキーワードをポロっと言ったのは「浅ましく」ってところであって、そういう意味では人間の自然に対する態度とか、基本的な態度もいくつか類型があるはずで、それについて知るっていうのはいいことかもしれないですよね。

・そう、つまりぼくが今知らず知らずに取っている態度は、自然に対しての人間の無力的な態度である、と。で、多分対比にあるのは庇護的な態度ってことだと思うんだけど。それからもう一つの対照になるのは多分、利活用していかなきゃいけないみたいな、そういう態度ですよね。

・で、おそらくそこで、資本主義的な社会システムとの接点をこの考えに持ってこれるんだ。つまり何て言うのかな、いや、つまり、自然との共生を考えるってことは、やっぱり社会、資本主義そのものを考えるっていうことの裏返しだよね。

・どういう言い方が正確かよくわかんないけど。今の地球をぶっ壊していく、このパワーの源には、おそらく消費社会的なシステム、消費を前提とする資本主義の経済システムというのがあるのは、これはもう間違いないですよね。で、何ていうのかな、だから多分そこもちょっと整理しなきゃいけなくて。自分の視点でどう整理するかって言ったら、エコノミクスの合う合わないっていう、結局安宅和人の言ってることなんだけどさ、エコノミクスの合う合わないっていうのと、自然との共生の相克の仕方とか、そういうことを身近な事例から考えるんだろうね。

・現代のエコロジー的なあり方のファラシーみたいなさ、そういうのも問題意識に入ってくるよね。エコであることが本当にエコなのか、 みたいな、日本だと世界から 4 周ぐらい遅れてるような議論の現状を当然知りたいし。 一方で、さっきちょっとだけ触れた、資本主義的エコノミクスのあり方と、自然との共生のあり方、ここはやっぱ実例とか反証が欲しいところだよね。なんていうか、安宅さんが言ってる事ってロジカルに言えば微妙に矛盾ってかすれ違っているところがあって。

・つまり彼が言ってることっていうのは。エコノミクスに合わないところが人間に打ち捨てられていってる、みたいな指摘なわけだよね。多分、そこは彼自身の中でも少し腑に落ちてないところがあるような気がするんだけど、よく例に挙げる富山のどこだっけな、 ちょっと地名忘れたけど、ああいうところで、本来は人間が居住するのに非常に適していたような場所っていうのが今、人口減少の波の中でエコノミクスに合わないという理由で打ち捨てられていくって言い方をしていて、しかし、それはなんというか、別に打ち捨てられていったらいったでいいじゃん、って立場があると思うんだよね。

・それによって自然はもう一度力を取り戻すのである、と。別に人間に住んでもらわないで結構っていうね。ただ一方で、そこにはやっぱりやや矛盾するようなんだけど、ここは言葉のニュアンスに気をつけなきゃいけないんだけど、そういう土地でも人間が再び住めるようにするみたいな、そういう、微妙な態度があるよね、安宅さんにはね。で、おそらくだけど、そうは言っても何て言うのかな、土地に恩恵を受けて生きていくっていうような考えが根本にあるはずだと信じていて。つまり、リソース、自然的なリソースの豊かさを利活用して、そこで人間がもう一度安全快適便利に暮らそうっていうことではないはずなんだよね。

・で、もうここまで来たら、ぼくの自分の理想と言ってもいいんだけど、本当に安宅さんが希求してるのは、もう一度、エコノミクスの側を少し調整して、それによってかつて人間が居住するのに非常に適していた、今の日本の美しい田舎において、もう一度自然の恩恵をいただきながら生きていくっていう、そういう態度が根底にあるはずだと、ぼくは信じていて。そうだといいなと思っていて、かつそれが自分の理想だと言いたいということですよ。

・いや、そうなるとやっぱり、自然に対する人間の基本的な向き合い方の類型っていうのを考えた人がいるはず*1で、そこの議論を少し掘り起こすのはいいような気がする。

・そういうのを一歩ずつやるしかないのかね。そうやったうえでぼくの予想だけど、そういう自然庇護的な立場と、利活用的な立場と、あとは第 3 の立場があるような気がする。それはすなわち、第 3 の立場というのは、「浅ましくも」的立場だよね。人間が何というか、まさにそれはやっぱり持続可能な形で。自然の側から恩恵を受けつつ、自らの豊かな暮らしを実現していくっていうような、そういうアンニュイな立場がきっとあるはずで、ぼくの直感は、第3の道こそが、実現するのは非常に難しい道なんだけれども、そこを希求していかないといけないっていうことを言ってるんです*2。で、それ自体はなんてかすごくお題目的に聞こえて。

・いわゆるサステナビリティとかってそういうことじゃないですかで、これは。わかんないけど、これまた直感だけど、社会学的にそういうサステナビリティの概念が、誤って、誤解されて、矮小化されて、世界に広まっていて、特に日本ではそうなってるっていう可能性がある。

・つまり、今やらなきゃいけないことの一つは、アンニュイなサステナビリティ的なものの考え方が一体ルーツとしてはどこから出てきていて、で、それがルーツを考案した、おそらく賢い社会学者とか哲学者とか、STS の分野なのかよくわかんないけど、そういう人がいるはずなんだが、それが世界に誤った形で広まっていった、そしてその軌跡を何とか辿る、っていうのが一ついいような気がしてきた。難しいんだけど、丹念にトラックしていって、で、当初の理念とかが果たして正しく世界に伝わっているのか、っていうことは考えなきゃいけない。

・だからそうすると割とやることははっきりしてて、サステナビリティというものがどこから来たのか、 という方向性でargumentもかなりargumentの形をなしてくるよね。

・サステナビリティというお題目、あえてお題目というか、そういうものは当初概念を開発した人間の意図とは違う形で世界中に拡散され、そして誤用されたまま今に至っているという、そういうことだよね。で、これ自体も多分よく研究しているような人がいる気がする。

・だよね。でも別にそれはそれでいいか。で、とりあえずそこを見つけるところから始めて、そこからまた考えようよ。で、予想としては、誤用がなされて、それが広まっていったなかで、さっき言ったアンニュイな立場ではない、エコノミクスの考え方とかあるいは逆でもいいんだけど、庇護的な考え方の方に矮小化されて、アンニュイで弱い考え方だった第3の道は、ニュアンスが非常に難しい考え方だったので、エコノミクスとか庇護的な考え方の方に包摂、吸収、あるいは利用されるような形で広まっていってしまったっていうのが、あるんじゃないかなと思います。

・やっぱり、サステナビリティの考え方自体は、ものすごくまともだと思うんだよね。で一方でそこでこう SDGSsみたいな話が出てくると、それをムーブメントとして大きくしようとした結果なのかもしれないが、途端に影響力を失って認知度のみが高まっていった可能性がある*3んですよね。だから、サステナビリティの本来の形に立ち戻らないといけないような気がするんだよね。

・多分これが一つ自然に対する信頼というか、これは何て言ったらいいんだろうね。むしろ正確に言うと、自然というものをいかに扱うかという人間の態度に対する信頼だよね。なので、自然そのものに対する信頼の話ではないんだけど。

・いいかと。で、本当に自然に対する信頼の話を考えたかったら。アニミズム信仰的なこととかね、そういうこと考えてもいい。ストレートではあるよね。

・OK、いいんじゃない、 今言った話は結構大事だよね。サステナビリティの話にやっぱりどうしても行き着くんだけど、サステナビリティと言った瞬間に胡散臭くなるっていうか。だから、そういう物事を一番最初に考え始めた人は本当は誰*4で、その人の言葉っていうのが本当に正しく社会に伝わったかどうかっていうのは、なんていうか、人文学的に研究して意味のあることなのかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、自分はすっきりするよね。で。やっぱりそこはずっとモヤモヤとしてきたことの一つだよね。正直ね。

・多分これを明らかにするには世の中で言われてるサステナビリティっていうのに、どういう態度が包摂されてるかっていうのを考えなきゃいけないよね。で、それはちょっと難しいけどやらなきゃいけない。ちょっとデュルケームとかジンメルとかから、やっぱりちょっと一瞬離れちゃうかもね。

・今日いっぺんに考えるかどうか置いといて、やっぱロボティクスとかテクノロジーについては、それは何だろうね。てか、もしかしたらさ、よく論文とかってさ3 部構成になってたりするじゃないですか、 で、このまま行くと多分、信頼というものを軸に据えて、3つの対象のうちの 1 つが自然に対することで一つが社会システム、一つがテクノロジー。で当然、それらは全て密接に転換しているので。

・一旦このサステナビリティのところから始めて、っていう感じにしましょうか、 これはまたちょっとChat GPTと相談しながら、argumentを磨き込んでいこう。

・さっき言った、第 3 の道があるとする考え方があるとして、それはすごくアンニュイなもので、自然に対してある種、人間の無力感を露呈するような態度の上で自然の力を借りて共生していくっていう意味でのサステナビリティという考え方が仮にあるとしてですよ。それをぼくだけじゃなくて誰かが感じてることで、それが研究の対象としてまとまっていたとして仮にだけど、「だから何なの」、っていうのはあるよね、

・多分なんだけど。分かった。分かった、いや、だから何なの、っていうか。多分第 3 のアンニュイな道っていうのは安宅和人が描く、風の谷の考え方にすごくマッチするようなもので、ぼくとしてはそれを推し進めたいという気持ちは多分あるんだけど、それってやっぱ思想的なバックボーンがないよね。っていうことになるんじゃない?

・仮にそういう指摘が入ったときに、やっぱ第 3 の道ってアンニュイで弱い主張だから、ニュアンスがすごく難しい主張だから、今、大衆(マス)が受容しているサステナビリティの考え方というのとは少し違った考え方なんですよ、っていうのをそれをクリアカットに説明できるっていうか、ある程度の強さを持ってargumentとして主張できるっていうことが必要になる瞬間が来るんじゃないかな。

・そう、やっぱそうだよね。さっきの話で自然保護環境保護的な考えと何が違うのって言われた時に決定的に違いがなきゃいけないわけでもないと思うんだけど、そこに何か不可欠な要素っていうのがあるはずなんだよね。それを先人の助けを借りながら。それを掘り下げていく、見出していくっていう知的な活動には何かしら意味があると思いたい。

・そういう、 一つのムーブメントとして、風の谷的なムーブメントを思想や考え方の側面から後押ししていくっていうことができたらいいなっていうことだよね。

・これはこの間も少し話したような、一つの賭けであってね。一番いいのがやっぱテクノロジーを提供することなんだよ。今からテクノロジカルなギャップを見つけて、そこを埋めに行くようなことをして、「物魂電才」でやるんですよ。でもそれは一つの道ですね、と。それで、風の谷に貢献していく。それはやっぱ一つのやり方ですよ。でもそこに行かないっていうのがぼくの一つのベットなんでしょう。テクノロジカルなソリューションを提供しないっていう。実際できないし、それはできる人がほかにいっぱいいるでしょ。これはやっぱ逆張りでさ。これからね、日本語で言うところの「理系」社会にどんどんなっていくから、それを見越した上で、今、最も地に落ちたと思われる、人文科学の分野でやるってことっす、 そうするっきゃない。そこはある種の「バカヤロー」の気持ちはあるにはあるね。自己を肯定したい気持ちだね。

・自然に対してはそういうことだよね。ただ、自然/社会システム/テクノロジーというふうに、すっきり分かれるとは思いません。正直言って。このサステナビリティに関することだけでも、相当大変だよ。

・これはうまいこと、いろんなもの力を借りながらやっていくしかなくて。整理しておくと、サステナビリティって最初に言い始めた人って誰なの、っていう。で、それはもしかしたら社会運動に求められるかもしれない。宮台真司がよく教えてくれるようなロハスとかね。ああいう社会運動から最初は来てるのかもしれない。でもそれはサステナビリティの定義によるよね。うん。そういうロハスみたいなものが、日本とかアメリカにおいて誤解されて伝わっていったって有名な話は適宜参考にすればいいし、自分の議論の一部にそういうことはなるかもしれない。そうだね。

・それなりに先行研究があるような気がするけどね。サステナビリティって最初に誰が言ったんだって。で、その人の思想の背景には自然に対してどういう態度があったのかっていうことだよね。そこをやっぱ明らかにするのがいいと思いますね。

・願わくばそれが、ここからはこれについては完全に自分のあれだけど、願わくば人がある程度こう名の知れた人で、著作とか、そういうものを多く残している人だといいなっていう。手がかりがいっぱいあるからね。

・あとあれか、安宅和人さんが言うところの、「解けない問題を解くな」っていう話があって。この サステナビリティって誰が言い出したの、 それがどうやって伝わっていったの、っていう問題を解けるか解けないかっていう、そういう疑問はあるよね。それはどっかで行き詰まるかもしれないけどさ。

・その時はその時か。とりあえずやってみようか。ダメならまた別の道を考える。

・それで、貨幣とか社会システムとかについて、か。ジンメルを読むっていうのはそういうことになるし、デュルケームを読むっていうことは、社会分業論だよね。もしかしたらそれを調べることがさっき言ったサステナビリティの議論につながるかもしれないし。繋がらないかもしれないし。わかんないです。どっちかわかんない。

・あんま同時にやんない方がいいよね。多分。研究の方法論も、自分の日常の中にどう落とし込んでいくかってことも、やっぱり少し考えた方が良くて。そうしないとね。やっぱりちょっと持続可能じゃなくなっちゃうんでね。

・サステナブルじゃなくなっちゃうから。そう考えるとやっぱりサステナブルであるっていうのは、意外と自分のキーワードの一つかもしれないな。

・あとあれか。死生観の話も入ってくるよね。サステナブルであるってことはさ。より長く生きるってことでしょ、だよね? 信頼よりもサステナビリティの方がちょっと大事になってきたな。

・一つはあれかもね。社会システムのことで、サステナブルな社会システムこそが信頼に足るのであるという言い方ができるね。いや、それ面白いな。人間がサスティナビリティを意識するということはさ、物の有限性に気がついたってことだよね。

・だって、無限のものに対してはサステナビリティもへったくれもないわけじゃん。で、やっぱ有限性無限性の議論になってきて。ね、そういう意味では、サステナビリティという言葉の流布が始まったことの背景には、当然ながら地球とかそういうものの有限性が強く意識されてきたということであり、それはある種、地球単位で人間が初めて死を意識し始めたって言ってもいいんじゃないの。

・だって、資源とかが尽きることがないと思っていれば、そこにサステナビリティというキーワードは生まれないわけで。うわ。ちょっと待って面白いな。ごめん。これはこれで面白いわ。いや、つまりだよ。

・洋の東西を問わずサステナビリティというようなものの考え方は、古くからあったはずなんだよ。古代の貴族かもしれないし、中世の領主かもしれないし、よくわかんないけどね。日本の歴史的に言えば、栄枯盛衰とか、そういうことだよ*5。

・自分の領土の資源というものの限界を知っているからこそ、人はかつては、 無意識のうちにサステナブルな生き方を実践していたはずなんだよね。で、どこかでやっぱり資本主義経済が加速をして、人々が一時それを忘れたんだろうね*6。

・で、すべては無限ではないと。それは社会システムの一部にも携わる話なんだけど、つまり、例えば前近代の時代に炭鉱とか、そういうところで働いていた人たちの労働力っていうのが無限ではないってことにいみじくも気がついたという瞬間があったはずなんだよ。そこから人権というものが生まれるんだ。うわー。面白いじゃん。

・そこから人権とかの話が出てきてるはずなんだよ*7。いや、そうなるとだよ。愚かな人間というものはかつてヒューマンリソースを炭鉱で使い潰していたように、一度地球というリソースを使い潰さないと、やっぱサステナビリティについて考えないのである、と。

・おそらく使い潰しかけたようなことがあって、どこかで賢い人々が。もしかしたら一人の考えとして、あるいは集合知として、サステナブルであることに対する呼びかけを近現代のどこかでしているはずなんだ。

・そこにはかなりの切迫性があって。キワキワを生きてる感じがあって。そしてその切迫性を理解しない、非常に極端な考え方が、左翼的あるいは右翼的の両極に分極をして、それで今の世界に至るのであるという、そういう考え方があり得て。で、その仮説によって、今の政局とかそういうものをアクチュアリティとして説明できるような可能性があるよね。いや、これ面白いね。いや。でもこれもきっと研究してる人がいるんだけど。

・でもそれはどうでもよくて、むしろ人の研究を知りたい。今のはすごくクリティカルなこと考えたね。つまり繰り返しになるけど。人権という概念はサステナビリティから始まったんだと、サステナビリティについて深く知るということは、これは死を深く知る、死生観を深く知ることにつながるでしょう*8。

・きっと誰かが考えてることだと思うけど、でもこの考えに今自分でたどり着いたって本当に自分ってえらいな。マジで。

・俄然やる気が出てきた。いまはちょっと、「信頼」というキーワードの岸辺から、少し船を動かしたような形になってます。ただ、通底する概念として、これは棄てないでとっておこうよ。今はちょっと、「サステナビリティ」という新しく出くわしたキーワードで、非常に興奮しているけど、多分信頼とかトラストっていうのはどこかでは出てくるし、もしかしたらぼくが知りたいこと、さっき大きく 3 つの分野に分けて言ったけれども、やっぱそれに通底する概念の道具として使える可能性があるので、これは捨てずにとっておきましょう。

・ということで、社会システムと自然、あとテクノロジーか。いや今の話ちょっとサステナビリティとテクノロジーのところも語れるといいけどなぁ。何ていうか、テクノロジーっていうのをさ、身体の延長なんだよね、

・要するに全てにおいて、全てにおいてですよ。身体機能を拡張するものをテクノロジーと呼ぶわけですよね。いや仮に、そういう定義があったとして。今ぼく完全に適当に喋ってるよ*9。

・だけど、テクノロジーっていうのは基本的には身体機能を拡張することにあるわけですよね。本当にそうかわかんないけど。目的としてはそういうことでしょ。ちょっと急に核心めいたことを言っちゃったんだけど、仮にそうだとして、だよ。

・身体性とテクノロジーっていうのは切り離せないとなると、そこにサスナビリティというキーワードが入り込んでくる余地はあって、つまりなんていうのかな。

・難しいね。社会システムとテクノロジーが別のものかって、またちょっと考えなきゃいけないんだけど、それは一旦置いといて、仮に別のものだった場合、テクノロジーが身体の拡張機能であるという定義をさらに認めた場合に…。

・つまり人間は死ぬんだな。つまり人間は死ぬんだ。1 個の個体としての、インディビジュアルとしての認知機能っていうのは当然ながら限界があるんだが、それを拡張するためのテクノロジーとして法人というものがあって、社会システムとして法人というものがあって国家があって*10。

・つまり、テクノロジーと社会システムっていうのは、一つのテックなんだ、と。社会システムというのはそういうことだ、って言ってる人、絶対いるよね。

・で、話を戻すと、何が言いたいかっていうと、それも身体の拡張である、と。なんていうのかな、 そういう意味ではやっぱ身体って、物理的に滅びるものなんだよね。

・で、それをサステナブル、それはなんていうか。ぼくはちょっとサステナブルって言葉の使い方に気をつけなきゃいけないんだけど、なんというか。むしろあれか、永続可能なものを希求するのがテクノロジーなんだ。社会システムとか普通のテクノロジーでもいいんだけど、いわゆるテックでもいいんだけど。

・テクノロジーの究極の理想形は永続的に利用できることなんだよ。一番強いテクノロジーっていうのは永遠に使われていくのかもしれないんだよ。だよね。で、永遠に使えるっていう事は、 サステナブルなんじゃない? 核融合とか。

・つまり、終わるということを想定したくないのがテクノロジーだとすると、そもそもやっぱりさっきの、 死を知るっていうこととは真逆ですよね、

・そうなると、テックというものとサステナビリティというものは、ねじれの位置にある概念だよね。永続するということと、サステナブルであることっていうのが違うかどうかっていうのは考えなきゃいけないね。

・何をもってサステナブルとするかっていう。ある期間というか、やっぱり延々に続くものなんだけど、お尻の方がこう、ぼんやりしてるみたいな、そういうイメージがあるよね。サステナブルという言葉にはね。かなり長い間続くものなんだけれども、やっぱり永遠とか無限とは違って。無限であればサステナブルであることを考えなくていいからね。何かリソースが無限に続くのであれば、究極的には。それか、無限に続くことを想定してるんだけど、閾値みたいなものがあって、それを超えると破壊されてしまって、そこでリソースを生成するシステムが循環として止まってしまうっていうことなんだろうね。

・ちょっとまとめると、サステナブルであるということが、意外と自分の問題意識を横断するキーワードである可能性はあって、「信頼」という概念道具はちょっと手元に持っとくんだけど、それはそれで一旦離れてみようということですね。いいキーワードを手に入れたなと思ってて、サステナビリティについて考えることによって、まずは自分が直感している自然に対する態度を、サスナビリティの観点から説明できるかどうか、だね。この際に注意が必要なのは、いわゆるサステナビリティと言った時に。自分が考える「本当のサステナビリティ」みたいなものが多分あって、それと社会一般で認識されているサステナビリティというものの考え方との間に何か乖離がないかどうか、あるとしたら自分が考える「本当のサステナビリティ」を仮に提案した人がいるとして、その人の当初の意図とは違う形で、社会にサステナビリティというキーワードが通底している、広まっているという可能性があるということをちょっとまずは手がかりとして調べましょう。

・あとはサステナビリティと社会システム。あるいは人権とかの話。さっきも言ったね。サステナビリティというものの前提には何かが永続しないという、人間が有限性を知ったっていうことがあるはずで、サステナビリティを人類が認知/認識した。あるいは動詞として掘り起こした歴史にはおそらくそういう経緯があるはずで。で、それは古今東西、なんとなく認識されてたことだと思うんだけど、だけど、それがおそらく資本主義がかなり加速しすぎたことによって、サステナビリティというワードが急速にカウンターする形で急速にプリバレントになっていったっていう。そういう経緯が多分あって。なので、サステナビリティと有限性無限性の歴史を調べるという。それから、やっぱり社会システムと絡めて、国家や法人っていう。そういう人間よりは長生きするもの、かっこいい言い方だね、一 個の人間より長生きするものを、いつからか人間がそういうものをインベントしてきたんだよな。そう。人類の歴史そのものであるわけですよ。それは。そういうことが多分あったはずなので、社会システムっていう意味ではそういう観点から深掘りができていくでしょう。

・最後に、ここはもうちょっと後で考える必要があるんだけど、テクノロジーのところは、出発点としては、サステナビリティとテクノロジーの観点で言うと、テクノロジーっていうのは身体機能の拡張である、とあえて断じてみた場合に、サステナビリティとの関係性を考えてみたい。なんだろうな。えっとデュラブルであるということと、サステナブルであるということの違いについての。テック側の認識、テクノロジーを生み出す側の認識がこう、すれ違っているというか、もう一回整理しないとよくわかんないんだけど。

 

*1:

環境倫理・エコフィロソフィーの3類型説など

  • しばしば自然に対する人間の姿勢を「征服・保護・共生」ないし「利用・保護・融和」など複数類型で語る議論が行われます。
    • 深層生態学 (Deep Ecology): アルネ・ネス(Arne Naess)らが提唱。自然を人間と同等に価値ある存在とみなし、徹底した共生を訴える立場。
    • 「弱い」環境保護: 資源保全・合理的利用など経済活動と両立させる線が強調される。
    • エコモダニズム: 先端技術を駆使して環境問題を解決しようという、“自然を大規模管理する”路線。

*2:

  • *「強い/弱いサステナビリティ」**という経済学・環境学の概念:
    • “強い”は自然の代替不能性を認め、経済成長や資本による代替を拒否。
    • “弱い”は自然資本を人工資本で置換してもOKとみる。
  • *伝統的生態知 (TEK: Traditional Ecological Knowledge)**研究: 先住民コミュニティが長期的に地域の自然と共生してきた知恵をどう継承しているか、そこに現代社会の持続可能性のヒントはあるかなどを探る。

*3:

拡散と「誤用」の歴史

  • 環境社会学・環境人文学: 「サステナブル」という言葉が、企業や行政、国連機関などでキャッチフレーズ化・バズワード化し、当初の理念が矮小化・表層化されたケースを分析している研究があります。
    • 例: 企業の「グリーンウォッシング」批判、「SDGsはお題目になっていないか」等。
  • ロハス(LOHAS)現象: 2000年代にアメリカや日本で広がった“Lifestyle of Health and Sustainability”が、本来は消費構造を問い直すはずが単に「おしゃれ意識高い系商品」マーケティングに吸収されてしまった、という社会運動論的な事例研究があります。

*4:

起源・言説史を辿るアプローチ

  • 森林学・林業由来: 18世紀ドイツの林業家ハンス・カール・フォン・カロヴィッツ(Hans Carl von Carlowitz) が「Nachhaltigkeit(持続可能性)」を提唱したのが文献上の初出とされる場合があります。
  • 近代的文脈: 国際舞台では1987年の「ブルントラント報告(Brundtland Report) / Our Common Future」が「Sustainable Development」を広く普及させた重要な転換点とされます。
    • ここで提唱された定義(「将来世代のニーズを損なわない範囲で現在世代のニーズを満たす開発」)が、その後のSDGsなどにつながる。

*5:

歴史的人類学・環境史の視点

  • Elinor Ostrom: 『ガバニング・ザ・コモンズ』において、前近代の小規模共同体が森林・漁場などの共有資源を「持続可能」かつ集団ルールを通じて管理してきた実例を多数示した。これを「伝統的エコロジカル知識 (TEK)」や「コモンズの自己管理」と呼ぶ分野がある。
    • 近代以前の農村社会では、森や水、野生動物など「限りある資源」を枯渇させぬよう独自の慣習や規範を形成していた例が世界各地に見られる。
  • 歴史環境学(Historical Ecology):
    • 例えば日本の江戸時代に見られた「里山」管理などは「自然と人間の循環関係」を巧みに保つ実践としてしばしば言及される。
    • ヨーロッパの領主制下でも、領内の森林や水利を維持するための慣習法や規制が存在。過度な伐採や乱獲を防ぐ仕組みを定めていたケースもある。

*6:

「資本主義 vs. 環境限界」の枠組み

  • ローマクラブ『成長の限界』(1972): 経済成長と地球の有限性の相克を数理モデルで示し、大きな議論を起こした。
  • エコマルクス主義 / ジェイソン・W・ムーア (Jason W. Moore): 資本主義が自然を「無尽蔵なフロンティア」と仮定する仕組みを批判し、「資本主義こそが地球破壊と表裏一体である」とする。
  • 脱成長 (Degrowth): セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)らが提唱。成長を前提としない経済・社会こそ真のサステナビリティへつながるとする論点。

近代経済史・資本主義批判

  • 「資本の自己増殖」と無限観:
    • マルクス経済学的には、資本は利潤を再投資することを通じて際限なく成長しようとする原理をもつ。この「限りなき拡大意志」が近代以降の“無限”イメージと結びつき、前近代の「循環的思考」を脇へ追いやったと論じる向きがある(例: エコマルクス主義)。
  • ジェイソン・W・ムーア (Jason W. Moore):
    • 近代資本主義が「無尽蔵な自然」と「無尽蔵な人的労働力」を前提として成立したと批判し、地球の有限性を無視する構造を「Cheap Nature」と呼んでいる。これが近年の環境危機を生んだという議論。

*7:

歴史社会学的視点

  • 「枯渇」や「危機」の経験が新たな制度・価値を生む:
    • 歴史社会学や危機史観の立場からは、危機の経験(資源が尽きる・労働力が足りない・疫病で人口減)→社会改革や道徳観の変容という因果を示唆する研究がある。
    • たとえば14世紀ヨーロッパのペスト(黒死病)後に農奴制が緩和され、賃金が上昇し、農奴の権利向上につながったとされる議論がそれに近い。
  • 人権思想の展開:
    • 近代人権思想はロックやルソーなど啓蒙期の契約論から派生したと通説的には説明されるが、経済・労働の現実も大きく影響している。
    • “無制限な搾取は人間(労働力)を使いつぶす”→“人間の尊厳・権利を承認しないと社会の維持もままならない”という構造的要請があったという視点は、社会史や経済史でサブ的に語られる(主流ではないが、面白い切り口)。

*8:

有限性・未来世代への責任

  • ハンス・ヨーナス(Hans Jonas)『責任という原理』(Das Prinzip Verantwortung): テクノロジーが人類・地球に与える影響が大きい現代こそ、未来世代や自然への責任を道徳的に問わねばならない、という議論。
  • 死生観との接続: 「地球という存在が有限であることを悟る=人類が集合的に“死”を意識するようになる」という論点は、環境哲学や未来学でも取り上げられている(“文明の死”を意識し始めた、等)。
  • ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck): 『リスク社会』で、近代が生み出すリスクがグローバルに広がるとき、人々は「自己の生存」に不安を抱え、根源的な不信やパニックに陥る。ここで「有限性」と「リスク管理」が繋がる。
  • アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens): 同じく近代のリスクや制度化と、未来への責任・時間感覚の変化を論じている。

*9:

テクノロジーを「身体の拡張」とみなす視点

  • マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan): メディア(技術)は人間の身体機能の拡張である、という有名な定式。車は「足の拡張」、テレビは「目の拡張」など。
  • バーナード・スティグレール(Bernard Stiegler): 人間は本質的に「道具(技術)を通して自己を形成する存在」であり、欲望や記憶のあり方すら技術により構築されると論じる。

*10:

  • ブローノ・ラトゥール(Bruno Latour): 近代社会は「人間対自然」ではなく、人間-非人間のハイブリッドネットワークが複雑に絡み合ってきたと主張。社会システムもまたテクノロジーとして機能する。
  • ルイス・マンフォード(Lewis Mumford): 都市や官僚制、資本主義的組織を「巨大テクニック(Megatechnics)」と捉え、人間生活を規定してきたと論じる。

日記479

・今日はMonceaux公園の方に歩いて行って、そこでちょっと話をしようかなと思います。 1 月 19 日の今午後 2 時半ぐらいかな? 割と今日はスカッと晴れてていい感じですね。

・昨日はシャンティーっていうお城に行ったんだけど、結構雲が出ちゃってて。雨こそ降らなかったもののちょっと微妙なお天気だったんで今日はスッキリ晴れていい感じですね。

・今日話したいことは、自分の勉強のテーマを 3 月までに決めると自分で決めてるので、それについてよく考えてるんだけど、昨日、仲の良い友人夫妻とまた話をして、政治とかいろんな話をする中で、いつも通り刺激を得たんですよね。昨日はもう一人、初めて会う人もいたんだけど、やっぱりあの人達と話してると、すごく刺激になるっていうか、自分ももっと勉強しなきゃなと思うし、もっといろんな本読んだりとか映画を見たりとか、そういうことをしなきゃな、というふうに思うね。その一環として、結局自分が何を勉強したいかっていうことをやっぱり考えるんだけど、一つにはおととい、金曜日かな。

・1 月 17 日の金曜日に、スペイン中銀の総裁とポルトガル中銀の総裁と、あとBIS総裁がスペイン中銀のカンファレンスで喋っていて、割といいイベントだったなと思ってるんだけど、何を話してたかっていうと中央銀行がそもそもこの先どうなっていくんだ、どう変わっていくんだという話をしてたわけだよね。講演自体は中央銀行と未来に求められる役割みたいな話で、割と大きな話でかつ、テクニカルではない、社会的な意義に関する話、これがすごく刺激になったんだよね。

・具体的には何かというと、中央銀行が今抱える一番大きな課題は、やっぱり一つには独立性っていうのがあって、当然政治からは独立をしてなきゃいけないんだが、政治の世界というのがグローバルレベルで、どんどんポピュリスト的、あるいは独裁的になってきているということだよね。それは別に中央銀行に関係ないといえば関係ないんだけれども、そういうプレッシャーがあるのを認めたうえでそこを牽制しに行ったっていうことだよね。

・で、プラス、結局中央銀行にできることっていうのは限られていて、限られていた方がいいし、限られていて然るべきなんだが、非常に印象的だったのは、社会において、金融政策が再配分的な政策になってはいけないという、このノルムの部分の話はすごく印象的だった。それは確かに言われてみればそうなんだけど、これまでそういう視点で物事を見たことがなかったから、すごく新鮮だったんだよね。

・もう一つの問題はやっぱりコミュニケーションの問題だと言っていて、それは自分たちの政策っていうのがもちろん、専門知識に基づいてはいるべきなんだけれども。それが人々のところに届くようなものでなくてはならない、と。

・最近、この辺の話が自分の中でいろいろと噛み合ってきていて。つまり、日本の財務省が 2024 年の 12 月あたりから、主に国民民主党が掲げる 103万円の壁の議論によって、それをこう何というか妨げようとしている、つまりなんとか減税させない方向で持っていこうとしてるみたいな、そういう批判が国民から集まってきているよね。それ自体はいつものことなんだけれども、やっぱり最近問題の質が大きく変わっていて。

・それはつまり、 主にSNSによってインスタント世論のようなものがすぐに形成されてしまいがちであり、こうした中においては、仮に表面的であったとしても噴出する民意みたいなものを無視することはできないのある、と。そこはやっぱり一昔前とは違って。テレビとかマスコミとか、そういうものを通じて受動的に人々が民意を形成していったというのとは全く違うことになってきてるわけだよね。

・何が言いたいかというと、 1 週間ぐらい前に財務省の主計課長がインターネットメディアのPIVOTに出演をしていて、そこにおいて財務省の政策について説明をするっていう、そういう動画を見たんだよね。

・主計課長って財務省の中でもエース中のエースっていうかね、要職中の要職の一つじゃないですか。そういうエースを当ててまで、インターネットメディアにおいて、自らの正当性を主張しようとした、しかもそれを財務省がしたっていうのは、かなりエポックメイキングなんだけど、意外と誰も騒いでないと思うんだよね。

・つまりこれまでは、政府の政策にどの程度合理性があったかっていうのは置いといて、国民にとって何らかの視点で合理的であるような施策を打ってさえいれば、それで良いのであるということをやっていた省庁というものが、インターネットメディアを通じて国民に直接働きかけるようになった。声を上げるようになったっていうのはかなり画期的なことだと思う。少なくとも日本においてはね。ぼくはPIVOTとか YouTube 系のメディアをこの 1 年 2 年ぐらいずっと見てきたけれども、これはやっぱ初めてのことだと思う。厳密に言うと、国交省の人がLUUPを普及させる時に、あれはPIVOTだったかアマプラだったかに出てきてたと思うんだけど、そういうことはあったが、しかし財務省がこういうことをすることはなかったわけだよね。

・やっぱり財務省っていうのは少し特殊な省庁だと思っていて、予算の決定権を持つという意味において、他の省庁と一線を画すようなものだとぼくは思います。財務省がインターネットメディアに降りてきた、あえて、こういう表現を使うけれども降りてきた(もっといえば、国民のために降りてきてあげた)というのは、すごくここ 1、2 年の流れを象徴するような出来事だったなと思うんだよね。その意味でも、石丸旋風も兵庫県知事選も国民民主の躍進も、ボディブローのように日本社会を変えてるんだ。

・これをさっきの中央銀行の話と結びつけて考えると、やっぱりスペイン中銀とかポルトガル中銀の総裁レベルで、いかに政策に関するコミュニケーションをとっていくかっていうことを中銀の一番の課題の一つとしたというのは、もう間違いないと思うんだよね。つまり、時代の流れ、なかんずく SNS の普及によって、そこに 1 つの新しい政策チャネルができたっていうことだよね。インターネット上のコミュニケーションいうものが一つの政策チャネルとしてありえるということを、中央銀行は真剣に捉えないといけないわけだよね。つまり、金融政策の効き具合っていうのが、国民とか、それを享受する人間の金融リテラシーに大きく依存してるっていうのは、これはもう周知の事実でいろんな研究が明らかにしてるじゃないですか。そういうことをやっぱり真面目に捉えた方がいいと思う。なんかそれは、長期的な取り組みとかいうことじゃなくて、差し迫った問題として本当の意味での金融リテラシーを底上げすること、そのためのコミュニケーションを不断に改善していくっていうことをもう少し真面目に考えなきゃいけないような時期に来てるんじゃないかなって思うわけで。

・それ自体は非常に陳腐な主張だと思うんだけれども、ポイントはタイミングなんだよね。いつ、こういうことが爆発するかっていうタイミングだと思ってて。おそらく近いうちに起きることは、こうしたインターネット上のコミュニケーションを軽視した結果、その不全を起因とした政策の失敗っていうものがどこかで起きる可能性がある、と思うのです。

・これは可能性の話で、別に何か前兆があるっていうことでもないんだけれどもありえると思うし、あえて前兆めいたものをあげれば、 2024 年 8 月に日経平均の暴落を見た時、それは日本銀行の公式見解としては、日本銀行のコミュニケーション上の問題ではないということになっていて、公式には直後だか直前だかにあった米国の雇用統計の発表によるもの、それが予想外の上振れだったか下振れだったか忘れたけれども、そういうものだって一応公式見解上の説明だったけれども、ただなんていうか、コミュニケーションによってそのショックをabsorbするっていうことは一定可能だったはずだと思うわけだよね。

・これは今完全に可能性の話をしているので。もう全く無視してもらって大丈夫なことなんだけど、ぼくが言ってるタイミングの話っていうのはつまり、自分の勉強のテーマっていうのは、 10 年後のことを考えてるんだよね。

・2035 年、あるいは 2034 年にどういったことが起きるかという時に、やっぱりちゃんとその時に効くようなものを10 年間かけて自分の中に蓄積させていきたいっていう考え方があるんです。必ずしも 10 年後である必要はないんだけれども、象徴的には。

・で、ぼくが今考えているのは、今から 10 年“以内”に金融政策とコミュニケーションの問題っていうのが大きく取り上げられるようなことになった時に、ぼくにはまだ十分なエクスパティーズが蓄積してないかもしれないということなんだ。つまり、何を言ってるかというと、自分の勉強としてどのトピックに取り組んでいくかっていう取捨選択を今、しようとしているんだよね。そこの帰路に今、立ってるわけなんだよ。それは 2025 年の 3 月末までにそれを決めるという私が自分で設定した帰路なんだけど、金融政策とコミュニケーションの関連性というものが果たして、 10 年後に自分が取り組んでいたいテーマたり得るかどうかっていうのを今考えてるんだよね。もちろん考えてもしょうがないことではあるんだけどさ。自分が納得するような答えを出したいというふうに思ってるんだね。

・それで実はもう一つ、勉強のトピックがあって、これは今挙げたコミュニケーションというものと、どう関係するかっていうのかはいまいちよくわからない、自分の中では全く整理がついてないんだけれども、やっぱり「信頼」に関することなんだ。政策とか、あるいは国とかいうものに対する信頼というものがどう形成されているかとか、そもそも存在してるのかしてないのか、存在するとしたらどう存在してるか、っていういうことを考えたいなと思ってるんだよね。

・もちろんさっき言った、金融政策とコミュニケーションの関係でも信頼ってのが一つキーワードになっていて、それは例えば物価の見通しとかを出した時に人々の物価に対する期待とかっていうものは、やっぱり一定ですけど、政府とか中央銀行とかが発するメッセージに左右されると思うんだよね。つまり、それは政府とか中央銀行が発信するメッセージをいかに信頼するかっていうことだと思うんだけれども、そこをfirmにできるかどうかっていうことを多分、今後考えていかなきゃいけない。そしてその中にcontrollable な変数があるのであれば、そこを改善させるような工夫を、中央銀行とか政府が今後していかなきゃいけないんだろうなと思うんだよね。

・本質的にはやっぱりこの財務省の今回のPIVOTへの出演っていうものの根底にあるのは、この信頼っていうことだと思うんだよね。国民が財務省の発するメッセージとかっていうのを、このままほっといていたらおそらく信頼しないだろう、っていう危機感があったわけ。そのために今、勃興している SNSメディアに財務省の職員が顔を出すことによって、単純接触効果でも何でもいいから信頼をしてもらうっていう目的が必ずあったはずなんだよね。

・そういう意味では、現状、やり方はすごく貧しくて。おそらく財務省の人が知恵を絞って辿り着いたところが、PIVOTに出演するっていう、言ってみれば一択だったんだよね。多分、他にできることはなくて、もちろん従来のいろんなやり方はやったんだろうけれども、それらは全部うまくいかなくて、他にできることがなくて、PIVOTっていうの出演に至ったというふうにぼくは睨んでるんだよね。まあ、これによってぼくのなかでのPIVOTに対する評価は大きく下がったんだけどさ。

・現状、選択肢はすごく貧しい。つまり、国民との間の信頼を回復したいと考えた時に、やり方について、少なくとも短期的に効果が出そうなものに関しては、非常に選択肢に乏しかったわけだよね。もちろん、信頼っていうものそのものが長期的に醸成されるものだから、短期的にできることっていうのは、これは貧しくあってしかるべきなんだけれども。それでも考えあぐねた結果PIVOTに出るという、なんていうか、誰でも思いつくようなことしかなかったんだよね、結局。別にそれがいいとか悪いとかって言ってるわけじゃないんだけど。

・それで、政府とか中央銀行とか、そういう公的な機関が人々から信頼を集めるには、そしてそれを高めるにはどうしたらいいか?っていうのは、これはもう不断の議論になっていくっていう風なのがぼくの見立てなんですね。

・そこを解明することによって、もう少し深いものが何か見えてくるんじゃないのかな。つまり、別に信頼の問題ってね、何も政府とか中央銀行とかだけの問題では当然なくて、人と人との間の信頼っていうものがどう形成されていくか、破綻するとしたら、それはどういう時かっていうのはかなり調べて面白いことなんじゃないのかなと思いますね。

・で、論点はやっぱり無限にあって。例えば、動物と人間って信頼し合うのかとかね。やっぱそういう視点からものを考えると、もしかして広がりがあって面白いのかもしれないし、収拾がつかなくなるのかもしれない。そのどっちかの間でしょうね。

・そう考えてくると、やっぱり信頼というキーワードそのものがいろんな広がりを持っていて、ぼくが例えば日本人としてパリに来ている時になんとなく日本人ってのが信頼されてる、ということも信頼なんだ。

・ちなみにこれは、薄れつつあるらしい。日本という国が貧しくなっていく中でだんだん、ね。なんか今、オーストラリアのインターナショナルスクールに行くと、何か物が盗まれると日本人が疑われるようになっているらしい。それは日本人が貧しくなっているので、可哀そうな日本人の子供が盗んだんじゃないかという風に疑われるようになっているみたいないうツイートを見たことがあって。すいません。真偽のほどは全く知らないんだけれども、つまりこういうことなんだよね。信頼っていうのが自分たちが無意識に享受しているインフラのようなものであってそこから無意識に有形無形の恩恵を受けているんだ。

・やっぱり「信頼」って、無限の広がりがあるキーワードだよね。教育っていうところを考えてみても、教育っておそらく学生と教師との間の信頼関係なしには成り立たないことで。つまり、今後の教育というものが教師なしに成り立つかどうかということに関して、やっぱり信頼ってのが一つのキーワードになり得ると思うんだよね。

・こういう、applicability もいろんなところにあって、すごく面白い。社会の中で非常に、何て言うのかな、いろいろな分野において、信頼に関するexpertiseを得るということはすごくいいような気がする。そして信頼を醸成する一つの手段として、例えばコミュニケーションというものがあるのだという整理をすることはすごくいいような気がしますね。

・ここでもまたタイミングの問題いうものがあります。このトピックが10 年後に流行るかどうかっていうことを意外とぼくは考えていて、結局今から何かを成し遂げようと思ったら、やっぱり 10 年ぐらい時間が必要で。10 年間ぐらい。そこに集中してリソースを投下していかないといけないんだよね。

・かつ、それを立志とするかどうか。志を立てるということです。信頼というキーワードで、今後自分の人生を生きていくということ、それを決断、決断であって判断ではない、するかどうかということだと思うんだ。

・それをどう結実させるかということでいくと、それはおそらく正攻法でいけば、社会学の枠組みでものを考えなきゃいけないでしょう。正攻法じゃないやり方もいろいろいっぱいあると思うんだよ。あえてね。つまり以前、簡単に調べてみたところ、日本において、信頼の研究をしてる人っていうのはいるんだけど、あんまり目立たないっていうか。まぁもうちょっと調べなきゃいけないんだけど、そもそも日本のアカデミアの世界にあんまりいい将来があるとは全く思えないんだよね。今のままでいくとね。特に人文学的なものの研究に関しては、トレンドとして、あんまりいい未来が描けないっていうのが正直なところなんだよね。

・もう一つ、先日読んだ「まったく新しいアカデミックライティングの教科書」に基づいて考えると、あの本の一番のポイントは、自分がトピックだと思ったものが argument かどうかを考えろっていうのが繰り返し主張されるメッセージだったわけだ。安宅和人ならイシューというだろう。とにかく、argument の大事な要素の一つとしてぼくすごく共感したことは、そこに「バカヤロー」の気持ちがあるかどうかってことなんだよね。

・これはちょっと冗談じゃなくて本当に大事だと思って、自分が社会や世間に対して抱いている違和感のようなものと言ってもいいんだけれども、それをargument として強くぶつけることができるかどうかっていうことだと思うんだよね。

・それは武道で言えば、うまく力を伝える前にまず、力がそこにたまっていることが大事なわけで。「バカヤロー」と大きな声で言う力がたまっている分野じゃないと、勉強として多分どこかで息切れをする。

・だから、そういう意味ではやっぱ自分のルーツとか生い立ちとかっていうのはすごく大事で。そこに今言った信頼というキーワードが、ぼくの中に「バカヤロー」という気持ちで存在するかどうかっていうことなんだよね。

・ぼくは少し脳みそ的になりすぎているのかもしれない。ぼくの「バカヤロー」の気持ちがどこから来てるかっていうと、やっぱり「自然」だよね。今、この目の前にある自然、それから自分の育った山という、本当に本当に素晴らしい自然環境。それに対して、もちろん感謝もあるけれども、それが失われていってはいけないという気持ちが強くあるんだ。

・大学の時に動物園の勉強にはまったのも、自然的なるものの象徴として動物というものがあり、それを人間が捕えて、動物園という囲いの中に入れるということが、どういう試みかっていうのを知りたかっただけれども、おそらく根底には「バカヤロー」の気持ちがあったんだと思うんだよね。

・この気持ちと信頼っていうところをどう結びつけるかっていうのは一つのポイントで、この身体の感覚なしに勉強のテーマを選んでも全く意味がないとぼくは思ってて、そこをうまく接続させるためにもう一段階、これを熟成させる必要があるなと思うんだ。

・信頼というところで言うと、ぼくはむしろ「バカヤロー」ではなくて、take advantageしてきた側だと思うんだよね。よくわからないけれども、信頼を得てきたという過去が自分にはあって、むしろそこは信頼のメカニズムが解き明かされることによって、それが自分を殺すことになりかねないっていうことなんだよね。

・take advantageしてきた例を一つ挙げると、ぼくはなぜか中学の時に、当時同じクラスだった女の子から好かれて、そこからのちの思春期/青春時代、恋愛面で大きな恩恵を受けてきた。それが良かったか悪かったかは今は分からないけど、実際、なんだか知らないけれども信頼されたという経験をしたんだよね。

・プラス、自分自身の能力という意味で、ぼくが自分自身を非常なレアケースだと思うのは、日本においてもまだ不完全ではあるけれども、平成の時代にはすでにかなり能力主義的な部分が大きかったと思うんだけど、一つ象徴的なことは受験勉強であって、もう一つは就職だったんだけれども。受験勉強においては、自分自身の能力はやっぱりそんなに高くなかったし、なによりも努力するやり方を知らなかったので、受験的な勉強とかなり相性が悪かったんだよね。でもなんだかよくわからないけれども、父親が浪人をさせてくれたっていうところ、ここがやっぱり一つ大きくて、それによって、他人の 1.何倍かのコストを積むことによって大学に入ることができたっていうのはこれは一つ大きかった。当時の父親の思いもきっとあったと思うんだけど、浪人をさせてもらえたという意味では、少なからず信頼されていたんだと思うんだ。

・就職活動でも、いまの会社に入社できた背景は、自分の演算能力とか語学能力とか学部の成績とかではまったくなくて、コミュニケーション能力を発揮することによって信頼を得るという一点のみを評価されたということは、これはもう明々白々でどう考えても間違いようがないポイントなんだよ。

・だから、ここで言うところのコミュニケーション能力とか信頼っていうのは何なのかっていうことを突き詰めて考える必要があるんだけど、こういう経緯だから、信頼というキーワードに対しては「バカヤロー」の気持ちの正反対、「ありがとうございます!」という気持ちで勉強をしていくことに多分なってしまって、それってなんかやっぱ argument としてどうなの?っていう気持ちなんだよね。

・そういう気持ちで勉強することが、ここからもう一つ大きなトピックに話を移すんだけれども、それが社会のためになると思わないんだよね。

・もしかしたら自分よりもコミュニケーション能力においてtake advantage してきた人たちに向けて、「バカヤロー」の気持ちを持つことはできるかもしれないが、あんまりそういう気持ちになったこともない。

・やっぱりもう少しネガティブな感情、悔しさとかこのままでいいのかよっていう、そこにかなり比重を置いてしまうような分野のテーマ、トピックを選ぶ必要があるかもしれませんね。

・そういう意味においては、「バカヤロー」の気持ちがもし仮にあるとしたら、日本の社会において、一部にはやっぱ能力主義的なところとか、ソーシャルモビリティの低さは行き過ぎていると思う。仮にね、そういう状況があるとしたら、そこに対する「バカヤロー」はないではない。例えばやっぱり官僚至上主義は嫌いだし、官僚の優秀さをモデルとするような、「従順な優秀さ」を育てるための今の日本の教育のシステムはかなりおかしい、特に東京の教育のシステムはかなりおかしいところがあると思うし、良くないところが正直あると思う。そういうことに対して、いかばかりかの「バカヤロー」気持ちは持つことはできるが、一方で、そういう人たちを相手にしたくないなという気持ちもあって。実際、現状もよく知らないしね。ただ、そういう教育システムの結果において、日本の国力が弱くなってるっていうところも確かだと思う。

・もっとも、そんなことは大したことじゃないのである、と。ここで3つ目のキーワードのところに戻るけれども、自分の勉強が結局、社会のためになるかどうか。世の中のためになるかどうかっていうところも、一つのクリティカルなポイントなんだよね。

・社会のため、と言うのが具体的に何なのかという問いについては、それはもう安宅和人が答えを出していて、ぼくはそこに乗っかっていいと思うんだけど、一つはもう、環境だよね。

・さっきの「自然」っていうところと、これはがっちりコネクトするんだけれども、人間が地球環境をぶっ壊しながら資本主義を推し進めていることほど確かなことはないわけで、この問題をアイデンティティポリティクスの方に持っていかずに、真面目にこの環境問題、地球との共生という問題をどう解くか、という方向で、頭の資源を使うべきなんだ。

・この中心問題の周りに、いろんな社会課題があると思うんだよね。やっぱそれを解きに行かなきゃいけないっていう安宅和人との言葉を、ぼくはもう全面的に信頼しますよ。ここは、「バカヤロー」と言える、自分のルーツの部分とかなり強く合致しているんだよ。この周辺で何かしらの問題を解いてないと、自分としてはかなり不満なことになっちゃうんじゃないかなと思うんだ。

・だから、①信頼と②コミュニケーションと、この③地球との共生っていうものをやっぱりなんかどうにかしてうまく合致させた活動をしなきゃいけないのかなと思いますね。

・安宅和人が提起する問題のもう一つは、人口減少フェーズにおいて社会をどうやりくりするか、ということ。これもかなり切迫した問題です。特に日本の、物理的なインフラをどう回すかということに力を割かなくてはならない。これはついでに言うんだけど、人口減少社会っていうものをあまりナメない方が良くて、これは、マクロ経済学の教科書が書き換わるということなんです。マクロ経済学の公共投資、これは需要を喚起するために行うものなんだけれども。じゃあ今のこのデフレから脱却しようとしてる状況の中、財政を吹かして公共工事ができるかっていうと、できないんだよね。

・なぜなら今っていうのは需要が完全に供給を上回ってるから。供給の部分は完全に人手不足で何もできない状態になっていて、財政出動をしたところで GDP が改善していかないっていう意味において、やっぱりマクロ経済学の教科書が書き換わるところまで来ている。あれはやっぱり不完全雇用っていうものをどうしても仮定に置いていますから。この人口減少圧力は、かなり合理的なのでピボットすることはありえない。それはどの国においてもそうです。中国だってインドだって、恐ろしいスピードで出生率は落ちてます。世界中の課題だよ。

・人口減少していく中での社会のやりくりと地球との共生という、安宅さんがセットしている 2 つの問題って、ある種放っておけば解ける問題でもあって。つまり地球が一番困ってることって人間の数が増えてることなんです。人間さえいなくなれば別に地球は大丈夫です。なので、人口減少していく中で緩やかに地球の共生の問題ってのは解かれていくんだが、これはやっぱりタイミングの問題で、人間が減るペースと地球が傷んでいくペースっていうのが全く違って、具体的な後者の方がはるかに大きいということなんだよね。

・これをどうにかしましょうね。ということ、特に世界でどうかは分からないが、少なくとも日本の美しい自然というものがどんどん破壊されていくっていう。この問題を解かなきゃいけない。これはもうおっしゃる通りだと思うんだよね。

・この問題が、信頼とかコミュニケーションというやり方でどうにかなっていくのかっていうのは、そこは何とかしてうまくコネクトさせることに知恵を絞らないといけないよね。そこに活路を見出したい。なんとかね。

・話は少しずれるけど、金融経済の根底にはやっぱり信頼があるとも言えて。どういう意味かというと、やっぱ貨幣経済の根底に信頼があるってことなんだよね。貨幣経済そのものも今の形でどこまで続くかよくわからないんだけれども、ただ少なくともね、貨幣の安定的な流通というものの根底に信頼があるよね、と。それは。国とか、貨幣の発行機関がデフォルトとかサーバダウンをしないっていうような信頼があることは、これは間違いなくて。そういう意味では、大きなテーマなんだけれども、さっき言った地球との共生とか、自然環境の問題とどう接続させることができるか?っていうのは、これは考えなきゃいけないことだよね。むしろ非常に斬新と言えるかもしれなくて、この地球との共生という問題を、信頼とかコミュニケーションの文脈で解こうとした人はもしかしたらいないかもしれないね。それは 10 年ぐらい経てばいい線行くかもしれないし、ある程度リスキーではあるかな? ぼくはリスキーなことをしたいんだ。

・なぜなら、あと 10 年ぐらい今の会社でぬるぬる働きながら勉強できるだろうから。もちろん10 年の間に、レイオフされないかどうかっていうことは、やっぱりちょっと真面目に考える必要があるけどね。今の会社がいつまで今の規模で人間が必要なのか、そのうち真面目に考え始めるだろうから。ヘッドも会見でそう言ったし。

・ということで。信頼とかコミュニケーションに関する勉強、それが意外と、地球環境とか、自然との共生の分野で何か接続させることができるんじゃないか。割と光明はあって、つまり、テクノロジカルなソリューションはいっぱい出てくると思うんだよね、この 10 年ぐらいの間に。

・それと、おそらく世界の政治が、あと 2 年ぐらいは右派の方に振れて行って、またおそらく 3 年後とか 4 年後、また次のアメリカ大統領選の時ぐらいには、またリベラリズムが少し力を取り戻してくるみたいな予想をしてます。だから10 年間の間に、あと2、3スイングぐらいするんじゃないですか?

・いずれにしてもいろんなことが起きると思うんだけれども、多分安宅さんが言ってることは揺らがない。地球との共生、自然との共生。少なくとも日本においてはそれが問題として妥当するということは、もうこれはほぼ揺らがないんじゃないかなと思うんだよね。

・テクノロジカルなソリューションの話をすると、これはYAMAPの春山さんが言ってることだけど、地球環境とかっていう意味での CSR というものが本気めいてくることは、これは間違いないと思ってて。つまり、企業としての収益というものと同じように、あるいは同じくらいに、企業の CSR というものが、特に地球環境とかいう面で重視されるようになる時代が来るってのはこれもほぼ間違いないでしょう。こうやって、 10 年間で企業がそういう方向に変わっていくんだろうけど、おそらくそこに自分は企業サイドのプレイヤー、つまりテクノロジカルなソリューションを提示する側にはいないんだよね。

・ぼくにとっての問題は、そうした企業などの経済主体の活動をインフラとして支える、信頼とかコミュニケーションというものが、その時どれだけ prevalent なトピックになるかっていうことなんだ。もしかしたらこの信頼とかコミュニケーションの問題を掘りしていくことによって、何かもう一つファクターが出てくるかもしれない。

・もちろん今の段階でも、表面的に結びつけようと思えば、いくらでもできるんだ。それは企業の CSR とかいうものをだけじゃなくて、もっと広く、法人とか、共同体としての信頼とかコミュニケーションというものが方法論として大事だよね、という世界に10年後なることはあり得るでしょう。それについて、昔の人たちが何て言ってたかっていうのを見返す/見直すって役割は、どこかでは求められると思うのね。そこのパスファインダー的な存在に自分がなっていくっていうのは、これは理想像としてはかなりいいことだと思う。

・ただこれ、やっぱり表面的な話で、ちょっと弱いような気がしてて、もう少し強い道を見つけたい。やっぱりもう一つ階段を下ったところ、抽象度を高めたところに、信頼 & コミュニケーションということの他にもう一つキーワードを掘り下げないと。もっとうまく、自然環境とかっていうところと接続できないかなというのが、これが今の自分の思考の課題だと言っていいんじゃないかな。

・それをなるべく早く見つけたいんだけどさ。それを見つけるためにはもしかしたら、社会学の基本のところをもしかしたら見つめ直さないといけないっていう可能性はある。

・でもそれは、問題を解く前に回答を見るみたいでイヤなので、それをやることなく。自分の中でまず仮説を立てたいんだけど。一つあり得るのは、「共同体」だよね。共同体とキーワードがあって、それから社会的資本というキーワードがありますよね。

・社会的資本と信頼というところに話を少し広げればいいんじゃない? つまり、「風の谷」にせよ何にせよ、人間なしには広がっていかないんだよね。結局、いかにスマートでオフグリッドなものを作って環境負荷の低いような共同体を実現するということになったとしても、そこから人間を排除するっていうのは、これは残念ながらできない。

・安宅先生は「物魂電才」だということをおっしゃっていて。これは完全に guess なんだけれども、彼の中にはかなりロボティクスがあるよね。これはもう間違いなくて、彼がよくドラえもんの例とかを引くじゃん、日本人がいかにロボットと相性がいいかってことをさ。

・で、 ロボティクスってつまり、身体性の代替だよね。ライカのカメラを舐めたいという先生の発言も印象的だけれども、そこにあるのは手触りの重要さで、そしてロボットによる身体性の代替なんだ。

・そういう意味では、人と人とならざるものがいかに、共同生活を送っていくか、これは、あの熊谷普一郎さんが言ってたことで、障害の本質について説いていた話だけど。障害の本質の話からは少しずれるんだけど、自身の脳性麻痺の体験として、「物と私が互いに歩み寄る」という話をしていて。例えば自分の身体を補完するような、義足でもなんでもいいんだけど、そういうものがあったとして人と物との相互の語り合いによって自分の身体を補完していって、それによって障害を部分的に乗り越えていくっていうような話があって、それはすごく興味深いなあと思ったんだ。これは結局、人と物、つまり人ならざるものがお互いに信頼を獲得し合っていくというストーリーで、仮にこれが本当にあるとしたら、今の「風の谷」の構想にかけてることかもしれないよね。

・「風の谷」には高度なロボティクスが入っていって、いろいろなものが省人化されるんだけれども、無人化することはないんだ。そこにおいては、ロボティクスと人間がどう信頼関係を築きあっていくか、人間の共同体の中に人ならざるものが入ってくるということを人間がどう受け止めるかっていうのをどう信頼するかと言ってもいいんだけど、こういうビッグイシューがあるということだよね。

・それはやっぱり面白いテーマかもしれないな。人がロボットをどう信頼するか? どうコミュニケーションを取るのか? 信頼とかコミュニケーションの本質って何だろう? とか、それを考えるのはいいかもね。それはありだよね。

・いや極論言えばさ、やっぱりロボットとか AI に人権が出てくるかもしれないっていうことをやっぱ真面目に議論すべきだと思うんです。この西欧世界の白人たちは、かつては人ならざると言われていたものに対して、ぬけぬけと人権を見出し続けてきたじゃないですか。これからの時代、ロボットとか AI とかっていうものに対して何かしら人間的な接続を求めるような機運が出てきてもおかしくないと思うんだよね。

・そういう議論の嚆矢、もしかしたらもう嚆矢どころじゃないような気がするんだけど、どこかで見ることができるかもしれなくて、それを 10 年後、日本でも真面目に議論している可能性はあるよね。リスキーだと思うけど。可能性はある。

・もう一個は、山だよね。山とか自然とかと人々の心が通ってるっていうのが、どういう状況か、それをちゃんと自然言語的に記述する、可能な範囲でロジカルな形で記述するっていうことができるようになったらいいと思う。だって、中央銀行とか国とかっていう人ならざるものが、コミュニケーション手段を通じていかに人々の信頼を獲得していくかっていうのはいい問題だと思うから。

・繰り返すと、人が減っていく中で自然と共生をする必要があって、そこにおいてはどうしてもロボティクスで、テクノロジカルに「物魂電才」で問題を解決していく必要があるという安宅先生の話は、おっしゃる通りであろうと。ただ、そこにおいては意外と人間くさいものがそれを邪魔する可能性があって、いかにテクノロジカルに優れたものが出てきたとしても、それをコンセプチュアルに受け入れるのか、実際の生身の人間がそれを受け入れるかということには、やっぱり障害が生じる可能性がある。

・そこを安宅先生は見落としてるかもしれない。見落としてないかもしれないけど、見落としてなかったとしても安宅先生は専門じゃないから、そこの考察はあの人にはできないと仮定しよう。人ならざるものに対して、人がコミュニケーションを通じて信頼をどう獲得していくかということは、結構面白いテーマだと思いました。

・順番的にどうなるかよくわかんないんだけど、政府だけじゃなくて、 EUでもいいんだけどね。 EU skepticismっていうのは一つの大きなテーマだから。

・なんでもいいんだけど要するに、主権国家とか中央銀行とか法人っていうのは全部、人間が作り出した人格なわけだけど、これをどれだけ信頼するかどうかっていうのはちょっと調べてもいいかもしれないね。そこにある信頼のメカニズムとか、人が人ならざるものを信頼した歴史、コミュニケーションを通じて人と人ならざるものが信頼したっていういう歴史を少し紐解いてもいいかもね。

・いろんなものを発明してきたじゃん。人間って。ある種、農業でもいいと思うんだよな。農業って、何で始まったか、やっぱりなんか不思議じゃない? だって、種を植えたら、来年には収穫できますって言われても、数か月間、何もせずに待つんだよ。これって、相当信頼がないとできない行為じゃない? それを言った人を信頼してるのか、もしかしたら種自身を信頼しているのか、はたまた心を込めて水をやって芽が出てきてくれ、と信じる自分自身を信頼しているのか。そこには絶対信頼というファクターがあるような気がしませんか。だって、失敗したら飯を食えないんだぜ。来年飢え死にするかもしれないって中でどうして種を植えたんだろうってやっぱり思うよね。

・ということで、人ならざるものを人が信じる瞬間って割とプリミティブにあったんじゃないかなっていうのが、仮説になるよね。そして人ならざるものを信じるというのはまあ、やっぱある程度可能なんだろうね。じゃないと。やっぱり政府とか国民国家とかってものがまずできないから。

・そこに対する信任、信頼の裏を返すと、不信というものがあるよね。いや、何かと言うと、ぼくを形成する一つの態度は、企業に対する不信任というものに裏付けされていて、特に日本の企業という、人ならざるものに対する不信任がずっとあったんだよね。

・だからメーカーに就職しなかった。今となっては失敗だったかもしれないと思ってるけど。小さい時に食品偽装の問題が相次いだから、自分の食べるものに対して企業っていうものがなんかどうにも信じにくいものなんじゃないか、やっぱり日本のメーカーをどこかで信じられないっていう気持ちがあったんだよね。

・もう一つは重要なのは、日本の歴史を振り返ったときに、インターネットとかそういうものが出てきた際に、それを無邪気には信じなかった人たちが多かった、ということなんだ。それはやっぱり、自然言語にはしにくい不安というか不信というかだと思うんだけどね。それによって日本という国の経済発展が遅れてきた部分は絶対あるでしょう。やっぱり信頼っていうのが、意外と資本主義経済を左右するかなりビッグなキーワードの一つだということは、ちょっと考えただけでも間違いないような気がしてくる。

・最後に、これは今分かってもらわなくて全然いいんだけど、最終的には人と人ならざるものの信頼に関する議論は、必ず相互的になるだろうと思ってるよ。人間が自然をどう信頼するかだけでなく、自然の方から人間がどう信頼を付託されるかってことも必ず将来的には議論になるでしょうね。

 

日記478

・それで、今は川端康成の「名人」の読書録を作ってます。

・小説は、総合芸術だと断じるところから始めましょう。「名人」を読んでいると、旅館の間取りとか、季節の花とか、動物とか、もちろん碁に代表される様々な遊びとか、そういう、小説の主題とは直接関係ない様々な要素が出てきます。そしてこれらの要素の描写を通じて、全体の描写を構成していると考えられます。

・となると、これらの要素を深く理解しておくことが、自分が実際に描写する段になっても役立つと思いませんか。思いませんかというか、思います。

・なので日頃から、こうした要素に熱中して、知識を蒐めておきたいのです。それが自分の描写力を底上げすることになるのです

日記477

・書きましょうよ、ブログ。

・2024年はいい年でした。無事にパリ政治学院を卒業し、結婚式も挙げ、たくさんの旅行に行き、友達と交流した。パリへの転勤もこなし、生活も充実している。

・知的生産の面から言っても、Notionと出会い、ChatGPTを使い倒し、Youtubeを通じて日本の政治を中心にこれまでにないくらい濃密にニュースに触れました。読書ログを取ってませんが、本もたくさん読んだ。

・2025年もいい年にするぞ。まずは今年こそ、小説で賞を取ります。北日本文学賞が最も望ましいが、なんでもよろしい。そのための仕込みをこの一か月弱、続けてきました。これを毎日、継続します。

・それと、もっと楽しく面白く、勉強を続けていきます。まずフランス語に関しては、言語交換のパートナーを見つけてレベルアップを図りましょう。

・英語も、もっと口頭表現に磨きをかけていきたい。短い時間でしたが自分主導で面談等をこなしたりしてレベルアップを実感したので、もっと上達したいですね。英語のレベルアップのためのトレーニングも実践中なので、これも続けていきたい。

・それで、いまふと思いついたのは、2020年当初、ブログを書くということがなぜ楽しかったのかということです。なぜブログを書くのが続いたのか、と言い換えてもいい。それは、ずばり言ってしまえば、ブログを書くことを通じて、それまでの自分ではない、誰かになれるような感覚があったからです。

・それまでの自分は、オンラインで何かを発信することを極端に嫌っていました。だから、ブログを書いて自分の考えをネットに公開できる人間は、自分とは違う誰かだったのです。

・振り返れば、その後ほどなくして部署が変わり、それまで経験したことない仕事をやったり、職場での先輩役など、それまでに経験したことのない役回りを担うことになりました。この時の感覚も、それまでの自分ではない誰かになるという感覚にオーバーラップするものだったので、その感じと相まってブログも続けられたのです。

・2022年に、毎日フランス語の勉強をすると決めて、それを実践したのも似た感覚です。だから、2025年も、今までの自分とは違う自分になりたいと思って、こうして目標を立てたりブログを更新したりしてるわけですね。

・だから、色々と目標を立てることも大事ですが、その根幹には、自分が変わりたい、こんな自分になりたい、という欲求があることが大事だと思います。それでいえば、今年は、私は小説を書く人になりたい。小説を書いて自分の食い扶持を稼いでいる人になりたい。小説家という自分の側面を、努力によってこすりだしていきたい、露呈させていきたい、そういう感覚です。そして、多分その過程で、小説家ならざる自分の一面が見えてきたり、いろんな発見があるのだと思います。努力なしには、これは発見不可能なのです。

・とにかく、思い切ってやってみよう。自分に与えられた時間の中で、力の限り努力してみようと思います。

・そしてせっかくなら、もっと大きな目標も持ってみたいと思います。自らを換骨奪胎させる、まったく新たな人間に生まれ変わらせるような目標です。しかしそれは、まず2025年、小説と思いっきりぶつかってみることでしか見極められないような気がしています。

・それで、クレイジーな努力をしなくてはならないと思います。量・質ともに、常軌を逸した努力、トレーニングが必要だと思います。フランス語の例から言っても、毎日1時間半程度、絶対的な努力が必要です。しかしそれは、楽しんでやるものです。

・全てを小説のために、自分の文芸の肥やしのために、やりましょう。熱意を持ってやりさえすれば、どんな努力も必ず報われると信じます。

・小説を書いて食い扶持を稼いでいくために、自分に足りないところをどんどん発見しましょう。そしてそれを埋めるためにはどうしたらいいかを見極め、努力をしましょう。それは絶対に、ただ本を読むだけ、ただ小説を書くだけではいけないのです。

・小説を書いて食い扶持を稼いでいる人たちの例を大量に見つけましょう。その人たちについても深く知りましょう。誰かひとり、小説家の知り合いを見つけるのもいいかもしれない。求めれば、必ずそうした知り合いが現れます。

・2024年、セルフインタビューを通じて、自分にとって重要な三つのことがらを発見しました。それについてはまた後ほど書きます。