なぜあの頃、そして今、「信頼」が問題なのか
最近ずっと「信頼」のことを考えていて、その延長で貨幣のことを調べているんだけど、ちょっと気になっていることがあります。というのも、ぼくが今面白がっているような「貨幣とは何か」「信用とは何か」「人はなぜ他人や制度を信頼できるのか」みたいな話って、洋の東西を問わず、1980年代後半から1990年代にかけて、やたらと集中的に論じられているんですよね。
直接のきっかけは、『現代思想』1987年8月号です。特集タイトルが「コミュニケーションとしての経済」。ここに浅田彰 - 岩井克人 - 柄谷行人の鼎談「貨幣 - 信用 - 国家」が載っていて、さらに廣松渉「貨幣と信約的行為」、大澤真幸「資本主義の錬金術」、今村仁司「他者を信用するということ」、Marc Shell「貨幣の意味論」、塩澤由典「在庫 - 貨幣 - 信用、複雑系の調整機構」、猪木武徳「貨幣と信用をめぐる二、三の論点」、石塚良次「貨幣の不在と他者の不在」、宮本光晴「市場 - ルール - 組織」などが一冊に詰め込まれています。 リンク:『現代思想』1987年8月号の書誌 - 目次
で、最初は「冷戦が終結に向かったころだから、何かそういう時代背景があったのかな」と思ったんですね。いちおう年代をおさえておくと、ベルリンの壁崩壊が1989年、ソ連解体が1991年です。
つまり、冷戦が終わるより前から、冷戦期を支えていた大きな思想体系そのものが既に揺らいでいた、という考え方ができるかなと思ったんです。井上俊先生による戦後日本の社会学史の整理を見ると、1970年代に入ると、それまで大きな影響力を持っていた構造機能主義とマルクス主義がともに弱体化し始め、シンボリック - インタラクショニズムや現象学的社会学など多様な立場が出てきて、80年代にはポストモダニズムの潮流が形成された、と整理されています。 リンク:井上俊「戦後日本の社会学史から」
それまでであれば、「われわれはどんな世界に生きているのか」という問いに対して、生産関係とか階級とか所有とか国家とか、そういう巨大な説明体系で答えることができた。もちろん本当に答えられたかどうかは別として、とにかく「これで世界を説明する」という大きな装置があったわけですよね。
それが弱くなってくると、もっと基礎的なところが急に気になってくる。そもそもなんで見知らぬ人同士が交換できるのか。なんでこんな紙切れをみんな受け取るのか。なんで将来の約束を信用できるのか。なんで市場というものが崩壊せずに毎日動いているのか。
考えてみれば、『現代思想』の特集タイトルが「経済」ではなくて、「コミュニケーションとしての経済」なのも象徴的ですよね。経済を生産や分配の問題だけでなく、「他者同士をどう結び付けるのか」という問題として読み直している。そこで貨幣とか信用とか他者とかいう概念が急に重要になってくる。
同じ1987年4月の『思想』にも、富山太佳夫「『大きな物語』再考――ポスト - モダニズムとマルクス主義」という論考が載っている。まさにそういう時代だったということなんだろうね。 リンク:CiNii「『大きな物語』再考――ポスト - モダニズムとマルクス主義」
ただ、思想の流行だけで全部説明するのは良くない気もするんですよね。もう一つ、現実の貨幣そのものが、この時代にかなり不思議なものになっていた、ということは押さえておく必要があると思います。
1971年のニクソン - ショック、そこから1973年にかけてのブレトンウッズ体制の崩壊で、戦後の国際通貨秩序は、金との兌換とか固定相場とかいう目に見えるアンカーを失った、というストーリーです。その後は変動相場制、インフレ、金融自由化、国際資本移動の拡大という世界に入っていくわけです。
Filippo Cesarano の Monetary Theory and Bretton Woods という本の紹介には、この変化が “the epochal transition from commodity money to fiat money”、つまり商品貨幣から法定不換貨幣への「画期的な転換」と書かれています。 リンク:Filippo Cesarano, Monetary Theory and Bretton Woods
もちろん、1971年から急に世界中の貨幣が不換紙幣になった、みたいな単純な話ではないです。ただ、金という「貨幣の外にある価値」に最後はつながっている、という分かりやすい物語が本格的に消えた。この時代に、「じゃあ結局、貨幣は何によって貨幣なんですか」という問いがリアリティを持ったというのは、かなりありそうな線です。
同年代に貨幣論を展開する岩井克人は、かなり挑発的に “Money is money simply because it is used as money” と書きます。これを(よく言われるように)「みんなが貨幣を信じているから貨幣になる」とだけまとめると、少し違うと思います。岩井が言うのは、あるものが交換手段として使われると、その使用そのものがそのものへの「社会的な需要」を生み、さらに交換手段として使われる条件を作り出す、という自己支持的な構造がある、ということです。商品としての実質価値や国家による指定を、貨幣が貨幣であり続けるための外部的な根拠として置く必要がない、ということを、岩井は bootstrap mechanism と呼んだわけです。
雑な言い方をすれば、1980年代は、思想の世界でも経済の世界でも、ある意味で「根拠が外から与えられなくなった時代」だった、と言ってもいいのかもしれないですね。
で、その上で冷戦終結がやってくる。冷戦期には、大雑把に言えば「資本主義か社会主義か」という制度そのものの選択が大きな問いだった。でも1989年から1991年にソ連圏が崩壊して、少なくとも暫定的には、「市場経済と民主主義」というモデルがいったん勝者になった。
そうすると、次に出てくる問いは、「市場経済を導入すべきか」ではなくなる。同じような市場制度、同じような民主的制度を作ったのに、どうしてうまくいく社会とうまくいかない社会があるんですか、という話になる。そこで前景化したのが、trustとか、social capital みたいな言葉だった、というのがぼくの今の仮説。
Ivana Marková が2004年の Trust and Democratic Transition in Post-Communist Europe の序論で、1980年代から90年代にかけて trust が “quite suddenly, a theme of the day” になった、と振り返っています。しかもこの本自体が、1989年以後の旧共産圏で、民主的な制度を作るだけでは足りず、政治への信頼とか制度への信頼とか、社会的信頼そのものが問題になることを扱っているんですね。 リンク:Ivana Marková, “Introduction: Trust/Risk and Trust/Fear”
フランシス - フクヤマも分かりやすい。1995年の Trust: The Social Virtues and the Creation of Prosperity。これは『歴史の終わり』を書いた人が、その後に「じゃあ資本主義社会同士の差は何で決まるんですか」という話をした本と考えていいと思います。
出版社の紹介文にも、『歴史の終わり』では冷戦の終結が同時に21世紀型資本主義の新しい競争の始まりでもあると論じた、その続きとして Trust では経済生活の社会的原理を説明する、と書かれています。 リンク:Francis Fukuyama, Trust
つまり80年代の問いが、「資本主義とはそもそも何なんだ」「価値とか交換とか貨幣ってどうやって成立してるんだ」という話だったとすると、90年代には少し問いが変わって、「市場経済はまああるとして、それをちゃんと機能させる社会とそうでない社会の差は何なんだ」という方向に進んだように見えます。
Claus Offe の1999年の論文 “How can we trust our fellow citizens?” は、ほとんどこのことをそのまま問うているので、これはちゃんと読まなきゃいけない。Mark Warren 編 Democracy and Trust 収蔵。
Offe はそこで、Fukuyama、Seligman、Gambetta、Giddens、Misztal、Putnam など、90年代に trust を論じた研究者をずらっと挙げて、「なぜ今こんなに trust が問題になっているのか」と考える。その背景には、公共政策や社会的調整、さらには “the maintenance of social order itself” の問題についての共有された診断があるのではないか、と言っている。 リンク:Claus Offe, “How can we trust our fellow citizens?”
つまり、国家だけでも社会を全部制御できないし、市場の価格メカニズムだけでも社会は動かない。法律にも価格にも還元できない、「もっと柔らかいもの」が人間を結び付けているんじゃないか、と。そこで trust や social capital や civil society が出てくる。いまでは、主に Putnam の業績として知られること(だと思います)なので、日本では宮台真司などにも影響を与えているのかもしれない。
Anthony Giddens の The Consequences of Modernity も1990年。ここでは security / danger、trust / risk が重要な対概念になっていて、さらに “Trust in Abstract Systems” という章まである。Giddens は、我々が既にポストモダンに移ったというより、近代性そのものが radicalized / universalized した「high modernity」にいる、と考えていた。 リンク:Anthony Giddens, The Consequences of Modernity 書誌
ここで言う abstract systems というのも面白い。現代社会では、相手本人の顔や人格を知っているから信用するとかいう話ではなくて、金融システムとか専門家システムとか交通 - 通信とか、ほとんど中身を知らない巨大な仕組みに日常生活を預けなければならない。
なんかこれ、めちゃくちゃ貨幣ですよね。
ぼくは目の前にある預金口座を運営する銀行員を知らないし、日本銀行券を刷った人も知らない。そもそも紙幣が決済される制度の細部も普通の人は知らない。でも使う。つまり近代化とかグローバル化とか金融自由化というのは、人間が「知らないものを信頼して生きる」領域をものすごく拡大した過程としても読めるのかもしれない。
以上、大きく二つの時代に区切って当時の問題意識をざっと見てみましたが、二つの時代の根っこにある問いは同じなのかもしれない。つまり、「物理的な強制でもない、法律そのものでもない、価格そのものでもないのに、人々を安定的に結び付けているものは一体なんなのか」という問いです。 これが、ホッブズの covenant の概念まで遡れるものだというのは、各種の教科書をもとにこのブログでも何度か書いてきたことです。なんで人間は将来の約束を守るのか。なんで相手が守ると思えるのか。なんで見知らぬ人の約束が信用になるのか。それが金融の credit にもつながる、ということです。
最後に考察したいのは、なぜ2000年代になると、この手の話をあんまり聞かなくなるんだろう、ということです。
trust の研究自体は、1990年代後半以降に爆発的に増えました。Roderick Kramer の1999年の Annual Review でも、過去5年間に trust / distrust への学術的関心が dramatically に増大し、既に “rapidly growing literature” になっていると整理されている。 リンク:Kramer, “Trust and Distrust in Organizations”
2022年の Kurt Dirks と Bart de Jong のレビューになると、過去四半世紀で trust は organizational psychology / organizational behavior の “core concept” になった、とまで言っている。 リンク:Dirks & de Jong, “Trust Within the Workplace”
つまり、哲学的な意味で「信頼とは何か」「社会秩序とは何か」と大きく問われていたものが、組織間信頼、職場の信頼、政治的信頼、医療、経営、ガバナンス、リスクコミュニケーションとかに分解されていった、と言えそうです。
これはぼくが最近ちょっと不満に思っていることとも関係しているかもしれないね。「信頼」という本来もっと大きな人文学的な概念が、定量的な変数として計測できる、みたいな方向に行った。もちろんそれによって分かったことも大量にあるので、それを否定するつもりはないけど、「信頼とはそもそも何なんですか」という問い自体は、科学化する過程で見えにくくなったのかもしれない。
貨幣については、さらに進んで、1990年代になると中央銀行の独立性とかインフレ目標とか credibility とかいう枠組みがどんどん制度化されていく。
楊枝嗣朗先生が2008年、「貨幣 - 中央銀行 - 国家の連関」という論文で、1990年代に中央銀行独立性の思想が一般に受容されるようになると、その後、貨幣と国家との関係が monetary economists の関心をほとんど引かなくなった、と振り返っています。 リンク:楊枝嗣朗「貨幣 - 中央銀行 - 国家の連関」
つまり、「貨幣は何によって支えられているのか」「国家と中央銀行って結局どういう関係なんですか」という根本問題が解決したわけじゃない。ただ、中央銀行独立性とか物価安定とかいう制度的回答ができて、みんなが「まあこれで解決済みですよね」と扱うようになった。問題が消えたんじゃなくて、制度の中に埋め込まれて、見えなくなった。
1990年代後半から2007年くらいまで、先進国では低インフレ、中央銀行独立性、金融グローバル化、電子決済、金融革新がどんどん進んだ。もちろん金融危機はあったけど、少なくとも主要国の「貨幣そのもの」が根本から問われるような状況はかなり少なかった。
ライフラインのようなインフラが、正常に動いている時ほど見えないように、信頼についても正常に機能しているときには社会問題として表面化しない、ということです。貨幣が当たり前に使われている時に「なぜこの紙を受け取ったんですか」とは聞かない。金融システムが安定している時に「金融システムの安定って結局どういう意味ですか」とはあんまり聞かない。
で、2008年。金融危機です。
Amin Samman らが Finance and Society の2023年の論説で、2008年の危機は finance and society の研究にとって “a watershed event” だった、と明記しています。金融市場の boom がリーマン破綻で終わり、その後には finance に関する学術研究の boom が来た、という面白い整理をしている。 リンク:Samman et al., “After the boom”
2008年の危機で分かったのは、民間銀行が勝手に貨幣を作っているように見えても、最後は中央銀行とか国家とか財政とかに支えられているということ。市場は自動的に自己完結しているわけでもない。「信用」というものは、人間の心理だけでもなければ、契約書だけでもない。制度の構造そのものだということが再確認されたのではないでしょうか。
で、さらに今ですよね。
暗号資産、stablecoin、CBDC、tokenized deposits、QE、財政と金融政策の境界、コロナ期の大規模財政、インフレの復活。なんかもう「貨幣って何でしたっけ」という問いが再びむき出しになっている。
BIS の Agustín Carstens は2022年の講演 “Digital currencies and the soul of money” で、かなり直球に “Money is a societal convention.” と言い、そのうえで、通貨への trust が monetary system を結び付けている、と論じています。 リンク:Agustín Carstens, “Digital currencies and the soul of money”
2026年には Banca d’Italia の Chiara Scotti 副総裁が、“Digital Money and the Architecture of Trust” という講演の冒頭で、16世紀マルタの貨幣に刻まれた “Non aes, sed fides”、つまり「銅ではなく信頼」を持ち出している。貨幣が受け入れられるのは intrinsic value のためではなく、value、convertibility、broad acceptance、そしてその背後にある institutions への trust のためだ、という話。 リンク:Chiara Scotti, “Digital Money and the Architecture of Trust”
ちなみに、この講演に半年ほど先駆けて、日本銀行の広報誌「にちぎん」の巻末コラムで、同じ貨幣のエピソードが取り上げられています。 リンク:広報誌「にちぎん」AIR MAIL パリ 貨幣に刻まれた統治と信頼の物語)
なんか面白いね。1987年に『現代思想』で思想家たちが「貨幣 - 信用 - 国家」とか「他者を信用するということ」とかをやっていた。その約40年後に、中央銀行の実務家が “architecture of trust” とか言いながら、ほとんど同じ根っこの問いをしている。
そうなってくると、ぼくが最近、貨幣、信頼、信認、安心、安定、ホッブズの covenant、岩井克人の貨幣論、齊藤壽彦の信用論、みたいなものをやたらと横断しているのって、本当にただの偶然なんでしょうかね。
もちろん、単なるたまたま、という可能性はあります。ただ、今の社会そのものがもう一度、「制度が正常に動くためには、人々は一体何を信じなきゃいけないんですか」という問いをむき出しにする局面に入っている、という可能性もあるように思います。
現段階では、一つ仮説としてこう置いておきたい。「信頼」というものが思想上の大問題になるのは、社会秩序を支えている既存の基盤が、自明じゃなくなった時なんじゃないか。
ここで言いたいのは、「昔の人は人を信頼していたけど、今の人は信頼しなくなった」みたいな牧歌的な話ではないです。そもそも信頼なんて、昔から裏切られたり失われたりしてきた。たぶん変わったのは、何を信頼して生活しているのかを、いちいち意識しなくても済む範囲なんじゃないかと思う。
いま、信頼のブラックボックスがいろいろな場所で同時に開き始めている。2020年のパンデミックでは、科学、行政、専門家、メディアをどこまで信頼するかが、抽象的な政治問題ではなく、毎日の生活の問題になった。その後のインフレでは、「物価はだいたい安定している」「中央銀行はそれを安定させられる」という、先進国ではかなり長いあいだ背景化していた期待まで、もう一度意識されることになりました。
さらに大きいのが、国際社会そのものです。2022年のロシアによるウクライナ侵攻は、欧州の安全保障秩序だけでなく、「経済的な相互依存が深まれば、少なくとも大国同士の関係はある程度安定する」という冷戦後の期待にもかなり大きな疑問を突きつけた。エネルギー供給は安全保障の問題になり、経済制裁ではロシア中央銀行の外貨準備まで凍結された。ECB はこの出来事を、グローバル化と国際通貨制度にとっての “watershed” になりうると論じている。 リンク:Geopolitical fragmentation risks and international currencies By Tamar den Besten, Paola Di Casola, Maurizio Michael Habib Published as part of the The international role of the euro, June 2023.
面白いのは、ここで問題になったのも結局「信頼」なんですよね。外国に置いた準備資産は本当にいつでも使えるのか。国境を越えたサプライチェーンは政治対立が起きても維持されるのか。経済的な相互依存は安定装置なのか、それとも相手に握られる弱点なのか。2026年には ECB のラガルド総裁自身が、かつて安定の源と考えられていた economic interdependence が、いまや disruption や “weaponisation of dependencies” に対する vulnerability としても見られるようになった、と話しています。 リンク:Preparing for geoeconomic fragmentation: Opening remarks by Christine Lagarde, President of the ECB, at a roundtable discussion on “Chain Reaction: Navigating Geoeconomic Shifts and Dependencies” at the Munich Security Conference, Germany
そこに米中対立が続き、さらに第二次トランプ政権が加わった。ここで重要なのは、トランプ政権を支持するか批判するかではなく、戦後ずっと背景にあった国際制度の持続性そのものが、改めて政治的な選択肢として見えるようになったことだと思います。第二次トランプ政権は2025年にWHOからの離脱を指示し、パリ協定からの再離脱を通知し、国際機関への米国の関与全般を再検討した。通商政策でも、既存のグローバルな貿易秩序が米国に不利だという認識を明示して追加関税を導入した。政策の是非とは別に、ここから見えてくるのは、「国際機関には主要国が参加し続ける」「昨日の通商ルールは明日もだいたい続く」といった期待が、自然法則ではなく、その都度の政治的意思によって支えられていたという当たり前の事実です。
そう考えると、いま揺らいでいるのは、個々の人や政府への信頼だけではないのかもしれない。「国際的な約束はだいたい守られる」「経済的相互依存は明日も続く」「専門家には共有された判断基準がある」「中央銀行は物価の単位を安定させる」「昨日まで通用した制度は明日もだいたい通用する」といった、信頼する以前に前提としていたものへの信頼です。BIS が2025年の世界経済を “uncertainty and fragmentation” という言葉で整理し、地政学的緊張と通商政策の不確実性が急上昇したと述べているのは、その感覚に近いと思う。 リンク:BIS Annual Economic Report 29 June 2025 I. Sustaining stability amid uncertainty and fragmentation
そして、もう一つのブラックボックスが情報です。SNSによって情報の発信主体が分散し、生成AIによって文章、画像、音声まで大量に生成できるようになった。以前なら、新聞の記事なのか、公的統計なのか、専門家の論文なのか、少なくとも「誰が言っているのか」を確認することで、ある程度は情報の信頼性を判断できた。でも今は、その入口から怪しくなる。OECD が最近の情報環境について、事実に基づく “common reality” が損なわれれば、社会的分断が深まり、複雑な政策問題についての合意形成まで難しくなると論じているのは象徴的です。信頼の問題は、もはや「この人は嘘をつかないだろうか」という二者関係だけではない。そもそも私とあなたは、同じ事実を見て議論していると言えるのかというところまで来ている。 リンク:OECD Survey on Drivers of Trust in Public Institutions – 2024 Results Building Trust in a Complex Policy Environment
こう並べると、2008年以後に起きていることにはある共通性があるように思える。金融危機は「市場は自動的に自己完結する」という前提を、パンデミックは「専門知と社会の関係」を、ウクライナ戦争は「平和と経済的相互依存」を、地経学的分断は「国境を越えた取引関係」を、第二次トランプ政権は「国際制度やルールの持続性」を、生成AIは「共有された事実の存在」を、それぞれもう一度問いに戻してしまった。いま起きているのは、信頼が単純に減ったというより、社会を支えてきたさまざまな信頼が「信頼として意識されずに済む状態」ではなくなってきた、ということなのかもしれないんですね。
いま揺らいでいるのは「人を信じる心」みたいなものではなく、もっと大きなものなのかもしれない。昨日まで当然だと思っていたルールが明日も続くこと。同じ制度の中に自分と他人がいること。意見が違っても事実を確かめる共通の手続があること。外国に置いた資産は必要なときに使えること。貿易相手は明日も貿易相手であること。そして一万円は明日も一万円であること。そういう「世界がある程度連続している」という感覚そのものが、近代社会における信頼の最も深い層だったのではないか。
だとすると、いま信頼について考え直す必要があるのは、信頼がなくなったからではない。これまで信頼とすら呼ぶ必要がなかったものが、信頼だったことに気づき始めたからなのかもしれない、というような気がしてきます。