日記377

トルストイの「光あるうち光の中を歩め」を読みました。岩波版を一年前くらいに買ったけど、新潮版を古本屋で見つけて、あまりにも読みやすさが違うのでこっちで読んでしまった

・要するにトルストイ晩年の、キリスト教に対する篤い信仰を対話形式で認めた本なんですけど、洋の東/西という二元論で生きてきた自分にとってはなかなか衝撃的な内容だったので一気に読んでしまった

・そもそもその二元論とは何ぞやということですけど、まず曖昧でコンセプチュアルなところから申し上げますと、仏教的/神秘的な価値観の東洋と、キリスト教的/科学的な価値観の西洋、という二項対立が、ぼくの考えの根底にあります

・前者と後者の分かりやすい違いは、主客の合一に関する点に求められます。前者の価値観のもとでは、主客というものが分けられないんです。

・どういうことかというと、後者の方から話したほうが分かりやすいですね。科学的な営みの大前提とは何でしょうか。「科学の大前提は再現性にある」という教科書的な説明はまあ置いておいて、ぼくは、「主客の分離」を科学の大前提だと考えています。観察するものとされるもの、この二者があって初めて、科学的な営みがスタートできるからです。そういう意味で言うと、観察という概念そのものが、主客の分離を前提としていますけどね

・動物園ブログで論じている、展示の仕方に関する考え方も、この考えに依拠しています。この辺の話は同ブログをご参照ください。と言われて読む人は皆無だろ

・東洋的な価値観においては、主客の境目というものは曖昧です。「わたし」という確固たる観念は希薄で、「世間」に代表される他者と混じり合っていることがほとんどです

・で、まあこの辺の考え方の細かい論点は今はいいとして、ぼくが近年、特に重視しているのは、こうした東洋的な価値観のもとでの禅の考えなんです。それは、オイゲン=へリゲルの「弓と禅」なんかに記されている通り、武道というものが禅の考えに依拠しているから、というのが大きな理由です。なぜ自分が、ほぼ片時も止むことなく武道に惹かれているのかと考えるにあたって、その根底にある価値観に惹かれているからだ、と考えるのは不思議なことではありません

・さて、ぼくが武道的なもの、禅的なものに惹かれる理由の一つは、それがパラドキシカルであるからだ、というのはいつかのブログでも書きました。

・端的な例を挙げると、剣を振りかざして襲ってくる相手から逃れる手段としてもっとも効率的なものは、自分が一歩前に進み出ることだ、というものが挙げられます。後ろに引けば相手は勢いのまま追ってくる、横に避ければ残った足が斬られる。一方で、前に踏み込んで相手の横にすり抜ければそこは最早相手の剣が通り過ぎた場所だから安全である、というわけです

・また、ぼくが非常に禅的だと考える武道の一つに合気道がありますが、合気道には和合の価値観が根底にあります。向かってくる相手と仲良くなってしまうことが一番の手だ、ということです。それでなくとも、合気道では、相手が行使する力をむしろ増大/加速させることに心血を注ぐ、というパラドキシカルな側面があります。

合気道の達人が、相手に自分の指や手を握られているところから、相手をいともたやすく組み伏せてしまうという場面を見たことがあるでしょう。あれは、何かを握る時に人の手のひらのうちに(無意識に)螺旋状の力が加わっていることを利用して、これを増大/加速させてバランスを崩しているんです

・少し話が逸れましたが、要はこういうパラドキシカルな考え方というのを、ぼくは今まで東洋特有のものと思っていたんですが、どうやらそうではなさそうだということに気が付いたのが、この本を読んで得られた収穫の一つです。

・よくよく考えてみれば、キリスト教の教義の有名な一節を思い出すだけでも、この点は明らかです。「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」「汝の仇敵のために祈れ」。これらは、「本来憎んでしかるべき敵に対してこそ大きな愛を抱く」という、大いなる矛盾を孕んだ言説ですよね

・ただし、この点は、この本を読んで得られた収穫の一つにすぎませんし、中心的な気付きでもありません。

・この本で述べられている中心的な話題は、有り体に言えば「俗世の幸福に人間の真の充足は見いだせない」ということに尽きます。代わりに、キリスト教の原義に示されているような禁欲的な生活を実践することを通じて、精神的な充足を目指すべきだということを「光あるうちに…」というフレーズで表現しているわけです

・この辺が、なかなか自分としては実感を得難いところなんです。その端的な例が、政治の世界でありアカデミアの世界です

・自分のなじみの深い、後者から行きましょうか。凡そグローバルなアカデミアの世界というものは、世俗的なネームバリューのために利用されていると考えるのが現実的です。より名前の通った大学に在籍して、研究結果/良い成績という成果を通じて評価を集め、キャリアをステップアップさせてゆく、というための場としてしか認識していない人がほとんどでしょう。

・乱暴な表現を使えば、食いっぱぐれないためにはそれが妥当です。そうして、現代のアカデミアの原典である西欧社会は、根っからの競争文化、根っからの世俗主義に支配されている、と思い込んでいたわけです。

・もちろん自分にも、ヨーロッパ出身の知己はいますから(北米出身の友達はいないな…学生時代にニューヨークでホームステイしていた先も、アフリカ系移民のルーツの方だったし)、そこまで極端ではないにせよ、上のブレットで書いたような思想を持っていたことは事実です。そして、何がこうした西欧の価値観を規定しているか問われれば、それは宗教、すなわちキリスト教以外にあるまいと思い込んでいたわけです

・また時間切れだ