日記417

・そう、そして忙しさのもう一つの代償として、全然本が読めていない

・8月中に4冊しか本が読めず、まあ小説執筆が佳境を迎えていたのでしゃーないと思っていたら、9月は仕事に追われてしまって、本を読む余裕がない

・マシュー=シャープの「戦時の愛」は読みましたけど。読書メーター上に、「読みたい本」がどんどん溜まっていくし、物理的な積読も増えています

日記416

・日記が月記と化してきているじゃないですか

・それが何だと言うのでしょう

・いや、最近TOEFLをやけくそのように受けていたり、居合のお稽古に並行して空手を再開していたり、仕事が忙しくなったりで全然ブログを更新する余裕がなかったんですよ

・分かりやすい言い訳をしている

・今日はそんな毎日の谷間に現れた祝日ということで、久々に心の余裕ができている

・あ、そういえば8月末に無事、例年通り小説を書きあげて提出することができました。めでたし。今年については、去年よりは確実に面白いものが書けたと自分では思うものの、どういう評価になるかは全然分からないですね。壮大な独り言になっている可能性もあるし

・小説も含めて、何かを書くという行為はやっぱり面白いですね。実は先週まで、留学の志望理由書を書くことにかかりきりだったんですけど、どうせならこの行為もクリエイティビティを磨く練習だと思って取り組んでみたら、結構面白い文章が書けた感触があって、楽しかったです。

・いや、別に面白いって言っても、読んだ人がクスリと笑うとか、そういうんじゃないですよ。あくまでも留学志望理由書に求められる要素を満たしながら、自分の主張を論理的に伝えるということができたんじゃないかって話です

・実は今、仕事でも、社外の多くの人の目に触れる文章を書きあげる業務に携わっています。コンテクストの範疇で、伝えたいことを明示的に書くということについては、やはり技術と経験が要求されることだなと感じています

・なんだこの感想は

・まあ、そんなことを良いながら、TOEFLはライティングが一番点数が低いんですけど

・技術と経験~

日記415

・ワクチンの二回目を接種しました。市販の頭痛薬を飲んだ切りで、副反応は恐れていたほどは出ず。大量に購入した食料はまあいいとして、経口補水液とか、冷えピタとか、どうしましょうね。いや、副反応でなくて良かったんですけど

TOEFLの点数について考えなくてはならない。芳しくないですね。スコアメイクの締め切りから逆算すると、やはりライティングとスピーキングは後回しにして、リーディングとリスニングを満点近くまで持って行くしかないような気がします

・で、リーディングなんですけど、中国版TPOとかでそれなりに問題演習してきて分かったことを書いておきます

・まず、思うように点数が伸びないことについて、問題形式ごとに何か傾向があるのかと思って間違えた問題形式ごとにメモを取っていたんですね

・そこから見える傾向として、まず、最後の6択の2点問題については、必ずと言っていいほど、一つ間違える。二つ間違えることはないんですけど

・それから、単語問題で間違える。たぶん、単語問題って難易度が二段階あって、簡単な方は間違えることがないんですけど、難しい方で間違えるんですね

・あとはまちまち。ハイライト部分の文意を問うもので間違えることもあるし、純粋な読解問題で間違えることもある

・あとは、文章読んでいて、これも単語なんですけど、文章中のキーとなる、かつ、TOEFLであればおよそ必修と考えられる単語をちゃんと覚えてないことがよくないですね。

・そういえば北村一真の「英語の読み方」を読みましたが、英文の読解に必要とされる3分野のスキル(文法理解力、語彙把握力、背景理解力)のうち、やはり語彙力が欠けているんだと思います。背景理解力もそうなんですけど

・ということで、単語を覚えつつ、リーディングとリスニングの演習を繰り返すという、王道しかないですね、今の段階では。特に、単語については、このブログ上でも色々とメソドロジーを模索してきましたけど、とりあえず今の段階で一番効率がよさそうなものを挙げておきます

日記414

・最後に一個だけ、雑記をさせておいてください

・自分のブログで、「させておいてください」も何もないんですけど

YouTubeって、すごくないですか?

・いかにも雑記って感じですね。でも、そうなんですよ。ぼくがYouTubeを通して何かを学んだ経験は、実に10年前に遡ります。

・でもその話を書くのは面倒なのでやめておきます。大事なことは、最近、YouTubeを通じて何を学んだかということなんですよ

・二つあります。まず、歴史。特に、東京という都市が、江戸時代からどんなかたちで発展してきたのか、ということです。これを教えてくれたのが、有名な交通系YouTuberである、スーツさんです。

・初めて見た彼の動画が、「江戸東京博物館に行く」というものだったんですけど、明暦の大火から始まって、関東大震災東京大空襲と、江戸や東京の街が常に破壊と再生の中でかたちづくられてきた、ということを改めて知りました。

・彼の歴史認識の背景には、交通、特に鉄道に関する膨大な知識があります。ぼく、いままで生きてきて、いわゆる”鉄オタ”っていう人たちは何が楽しくて鉄道マニアになったのか、全く分からなかったんです。しかしながら、氏がよく言うように、(少なくとも明治以降の東京においては)交通、特に鉄道の歴史がそのまま街の歴史ですから、鉄道のことを深く知ることが歴史を知ることにつながるのだ、と知るに至って、鉄オタの気持ちが分かるようになりました

・これについてはまだまだ書きたいんですが、ひとまず次。外反母趾です。

外反母趾、です。ぼく、物心ついてからずっと、これに悩まされてきたんですよ

・いや、痛みがあるとかじゃないんですけど、ビーサンが履きにくいとか、足が疲れやすい気がするとか、空手の型をやるときになんか見た目が微妙だな、とか、細かい悩みがたくさんあったんです

・で、まあ民間療法みたいなのを、機会があるたびに試してきましたが、一向に改善の傾向はありませんでした。ネットで調べてみても、まあ結局は遺伝ですとか書いてあるし、マッサージとか整体でも、これについてクリティカルな意見をもらうことはなかった。ので、なんとなく、「鼻緒の付いた履物がいい」的な言説もあるし、雪駄とか履いて歩くことで治ったらいいな~みたいな感じで日々を過ごしていました

・ところが、これ、昨晩なんですけど、接骨院の先生的な人がYouTubeで出してる動画シリーズを発見したんですよ

・これを観て、まあ、目から鱗ですよね、いわゆる。骨格や足の作りが丁寧に解説されていて、外反母趾を改善するための歩き方が、きちんとした(少なくともそのように聞こえる)理論に基づいて説明されていました。実践してみると、たしかにかなり足が疲れにくい。それだけでなく、上記で触れたようないわゆる民間療法が、いかに根拠のないものかも説明されていて、「早く言ってよ!」って感じです

・ということで、結論、YouTubeはすごい。ありがとうYouTube。課金はしませんが…

日記413

・あっという間に夏休み最終日。第Ⅱ期の振り返りをやろうと思って、ここまで来ました。

・いや、あれですよ。もちろん、色々と考えてはいました。外山滋比古風に言えば、脳内でアイディアを発酵させていたんです

・「知の技法」に関する簡単なレビューもしましたし、千葉雅也の話もしました。TOEFLも受けたし。何より、小説を書きあげることができたのがえらい

・今、何をしているかというと、このお休みの過ごし方を自分で正当化しています

・関係ないようで関係ある話します。昨日、夜、ふと思い立っておうちのお掃除をごそごそとしていたんですけど、自分にしては珍しくというか、ほぼ初めての経験だと思うんですけど、自分が過去に書いていた雑記帳とかノートをいくつも捨てました。

・要らないと思ったんですよ。これって、意識がかなり変化していることを示唆していると思いませんか。

Onenoteとこのブログに、自分の思考が一本化されているということですね。かつ、なんというか、過去の自分をアップデートできているというか、つまり自分が雑記帳に書き留めたもののうち、何に価値があり、可能性があるのか、ということを峻別できるようになっている

・加えて、自分が常にアイディアを生産可能であるという自信がついてきた、ということでもあります。たとえ有益そうなアイディアを書き留めた雑記帳を誤って捨ててしまったとしても、それに類するような、ないしはそれを超えるようなアイディアを、また生産可能であるという自信がある、ということですね

・ちょっと思いついたついでに書いておきますけど、「アイディアの結実」というものを、経済学で言うところの「均衡点」みたいなものと捉えてみてください。価格という均衡点は、今この瞬間にも、世界中のいたるところで生まれています。

・たとえ同一の財に対する価格でも、様々な制約から、その水準は多様なものになりますよね。さらに、時間の概念を導入すれば、ある瞬間に成立した、ある財についての価格も、時間の変化とともに変化していくでしょう。一度結実した価格は、永久不変なものではなくて、絶えず生成変化していくものなんです

・アイディアも然り。つまり、人の思考というものも、絶えず生成変化していくものなんですね

・それはそれとして、上記の価格概念って、もしかしてあれですか、ぼくが大学時代に習得を断念した、動学的一般均衡マクロモデルと関係してますか?だとしたら、気が付くの遅すぎませんか?

日記412

・小林の主張を受けて、大澤はまとめに入ります。小林の主張を繰り返している部分を除くと、まず、大澤が言明しているのは、人間的な意味というのものが危険だということ。資本主義を否定しようとして走った、共産主義ファシズムを挙げます。

・そのうえで、市場ではスタティックな均衡が成り立たず、均衡は新規参入者やイノベーションを受けて常に崩れ、発散し、次の均衡点へと収束する、という表現を使うことにより、「資本主義はディコンストラクトそのものである」という小林の主張を補強します。このダイナミズムこそが資本主義の本来の姿であり、ポスト構造主義に対応すると主張します。

・つまり、資本主義は、「壊すことが秩序だ」という方法だ、とまとめます。秩序の崩壊を食い止める、「クッションの綴じ目」として機能するはずの『意味』を、空虚なものにしてしまう。

・その上で、大澤は、ヴェーバーマルクスを挙げながら、資本主義を宗教と似通った社会現象であると位置づけ、そこを考えることによって、資本主義に対抗する手がかりを見出そうとします。

・ということで、本書ではほかにも資本主義に言及している箇所はあるんですが、いったんはおしまい。大事なのは『有限性』だからね…。

・本書の魅力は、もちろん資本主義の射程とその限界を論じるにとどまらず、人文科学のあり方について、様々な角度から語りつくしているところにあります。そこについては、ぼくの動物園学における問題意識と近しい、動物の認知の問題なんかも含まれていますから、そういう視点でも読み返したいところ。

・ただしひとまずは、今期のお勉強として「資本主義の射程と限界」を掲げておきながら、まったく方向性を見出すことのできなかった自分にとっての天啓的な書であったということで、知的興奮を覚えた記録をしておきます。

日記411

・小林は、この「実存→構造→ポスト構造」のプロセスそのものが行き詰っている、という点をまずは指摘します。ただし、なぜそう言えるのか、という具体的な論理展開に関しては、デリダ以外にもレヴィ=ストロースドゥルーズベイトソンレヴィナスの思想を包括的に分かっていないとついていけないので、ここでは横に置いておく

・そして面白いところは、ちょい長いですが、以下の通り直接引用します。

これを言うと袋叩きにあいそうですけど、こういう機会だ、あえて言ってみれば、ドゥルーズがやった脱領土化とか、リゾーム、生成変化とか、デリダディコンストラクションとか、そういったポスト構造主義的な実践そのものが、ある意味では、この間の資本主義の飛躍的進展にパラレルだったように見えてきてしまうということがある。否定するのではなく、肯定を留保する。革命するのではなく、逃走する。構築するのではなく、脱構築する。こういった実践の戦略は、とりわけ七〇年代以降に顕著になる資本主義の高度化、ソフィスティケーションの戦略とどこか似通ってくる。つまりただ、強大なエネルギーを使用して、構造そのものを根源的に換えてしまうことによって前進していた熱機関的資本主義というか、力による資本主義というか、それにかわって、まったく新しいタイプの絶えざるシステムの開発やデザインの改良によって自己を増殖させるシステムエンジニア的資本主義というか、それへの転換が起きているように思えるわけですね。(引用終わり、pp121)

・ そして、この資本主義の変容こそ、リオタールがかつて「ポストモダンの条件」で指摘したものである、とも言及します。

・そして、資本主義については、「現実の構造を微妙にディコンストラクトしながらイノベーションして、それを変容させる」ことによって利益を生んでいる、と言います。その最先端が、デザインやアートである、というのは、よく分からない。

・分からないが、先に行きます。まず、資本主義の基礎付けである自由は、「交換の自由」であると指摘します。そのうえで、交換の対象である「価値」は、未来への「投機」によって支えられている、とし、そのうえで、その構造は、実存主義によって主張された、「未来の存在の意味への自己の『投企』」に似通っていると指摘します。ここにおいて、資本主義と実存主義の通底を見出します。

・ところが、重要なことに、資本主義は、「(人間的な)意味」に囚われない、とし、例えばひとたび金融危機が起こった国からは、その国の人の生活がどうなろうとも、いっせいに資金が引き上げられる、という例を出します。まあこの辺は、資本主義の特徴として納得のいくものですよね。こうした状況を、「資本主義においては、(人間的な)『意味』がディコンストラクトされている」と表現します。

 

日記410

・知的興奮というのは、あります

STAP細胞みたいになっちゃったけど、そういうものがとにかくあるんです。小林康夫/大林真幸の「『知の技法』入門」を読みました

・それを読んで久々に知的興奮を覚えましたという話なんですけど、ほんと、不審者ばりに、髪の毛をかきみだしてしまうほどのインパクトがあった。その一端を、書き留めておきましょう

・大事な話は、第3章で、現代思想と経済理論を結び付けて論じているところです。現代思想の方から、かいつまんでいきましょうか

・大きくは、20世紀における、実存主義構造主義ポスト構造主義、という、おなじみの三段階の思想展開です。

・ということでまずはサルトル。近代というものの成り立ちについて、「実存は本質に先立つ」というテーゼをもって、平たく言えば個人の自由というものを掲げて見せたわけです。主体を、個人に/人間に、投射したということです。

・そして、そうした哲学を批判しているのが、構造主義ですよね。ソシュールヤコブソンという、”言語学者”たちが、実存主義的自由は幻想にすぎず、結局人間は言語的な構造の中に囚われている、と説く。構造によって、実存が規定されているということです。

・ところが、その構造そのものが、実は人間の活動や欲望によって規定されているのではないか、という、「構造の被規定性」を提案するのが、ポスト構造主義なわけです。その典型例が、デリダの「ディコンストラクション脱構築」というアイディア。構造は、閉じたものではなく、色々な形で破綻したり変化したりする可能性を示唆したわけです。こないだ千葉雅也のことを書きましたけど、彼が研究対象とするドゥルーズも、この中に位置づけられるのかもしれない。

日記409

・話は、「動きすぎる」ということについて、です

・先の理論を踏まえると、ぼくは通常の人の二倍のコードを備える必要にさらされます。アカデミシャンのコードと実務家のコード、小説家のコードとサラリーマンのコード、オタクのコードと不良のコード、若者のコードと老人のコード、男性のコードと女性のコード…。

・そしてそれらのコードの、どれも完璧には/満足には実践できないというジレンマに苦しんでもいます。

・じゃあ、それどれかのコードのみを選び取って忠実に実践しなさいということになるわけですが、それができないというのが自分の”享楽的”なこだわりなんです。つまり、常にバランサーとして機能していたいという欲求が、これはもうたぶん本能レベルであるんです。この自分は、もう受け入れて生きていくしかない。それが自分の強みであり弱みであるということを、いい加減自覚的に受け入れましょう

・ちなみに、これは、武道的に言えば、まさに居着かないということになります。どこにも重心をかけず、常にどちらにでも動けるようにしておくというのが自分の価値観にフィットしたからこそ、内田樹の身体論なんかがすっと頭に入ってきたし、ひいては武道を続けていることに繋がっているんです

・ということで、どうしても、常に、複数のコードの間を「動きすぎてしまう」のだということが、この齢にしてやっと身に染みて分かりました。問題は、そんな自分がこれからどうやって生きていったらいいのかということです

・でも、こういう人、結構いそうですね。その中から、自分の師となりそうな人を見つけて、私淑すればいい

日記408

・今日考えたいことは、まさに「動きすぎること」にあります。ただし、千葉雅也がドゥルーズ論で唱えているような「動くこと」とは違います。違うと思う。なんせぼくは彼の思想をきちんと捉えてないので、これから自分が考えることが彼の思想の射程と違うか違わないかということすら分かりませんが、まあいい。

・ぼくが「動きすぎている」と言っているのは、これまでの自分の生き方です。これまで自分は、特定の価値観、社会通念、つまり現代思想で言えば”コード”ということになるんでしょうか、そういうものに染まりすぎないように、ということを意識して生きてきました。

・まあ、地球という星の日本という特定の国に生まれ、特定の親に育てられ、特定の教育を受けた以上、もちろんそれに準じたコードをインストールしているわけですが、自分で選択できる部分については、なるべく汎用性の高いコードを習得するように心がけてきたというか、自分のコードの外にも広い世界が広がっているということを努めて意識して生きてきました

・同時に、そうした生き方を否定する人、つまり自分のコードで世界も動いている、動いていてほしい、そうであらねばならない、という人を嫌悪もしてきました。そんな人がたくさんいるとも思えませんが、人は時にそうした価値観を映じた言動をしてしまうものです

・ちなみにぼくは、そういう人たちのことを、縄張り意識の強い人、と呼んでいます

・さて、ぼくのこれまでの生き方というのは、分かりやすく言えば常に門外漢であろうとする生き方です。これ、自分で言うのもなんですが、結構賢いやり方です。

・仮にいま、自分が全く新しい環境に身を置くとしましょう。このとき、この環境には当然それに対応したコードが存在します。このコードを踏まえて、どういった行動をとるとウケがよいでしょうか?

・通常考えられるのは、「その環境のコードをよく読み解き、それに即した行動をとる」というのが最も歓迎されるということになりますが、ぼくの考え方では違います。それだけでは普通過ぎる、と考えて、もう少しレバレッジを効かせるのがぼくのやり方です

・どういうことか。まず、特定の環境下で、「その環境のコードをまるで知らない」という門外漢として振る舞うのです。それだけではなく、むしろ「その環境のコードとはまるで反対、対称とすら言えるコード」を実践さえします。門外漢どころか異質者、敵対者としての振る舞いを、混ぜ込むのです

・その上で、その新しい環境のコードを、これでもかというほど従順に実践して見せます。余裕があれば、そのコードを拡大解釈/深掘りして見せたりする。これは周囲からすると、きわめて好感度の高い振る舞いです

・要は、不良=捨て猫理論です。まず、前提として、社会では「捨て猫を拾うのは優しくて良い振る舞い」との共通理解、コードがあります。その上で、善良な人間が捨て猫を拾うのでなく、あえて反社会的、反コード的な人間が善い振る舞いを実践することで、なんだか実態以上に、その人間がコードに順応している人間に見えるわけです

・というか、自分たちのコードが肯定されたような気がして、安心するんでしょうね。「あんなに悪そうな人が、自分たちの信じるコードを実践している」となると、「それだけ、自分たちのコードは多種多様な人に受け入れられる、素晴らしいコードなんだ」、といった具合に。

・ぼく、何のハナシしてるんですか?

日記407

・わっはっは

・しばらく日記を書かなかったですね。この間にも当然、人生を生きていたので、色々と書きたいことが溜まっている

・ごく最近、千葉雅也の著作、一般書ですけど、を乱読しています。ひとまずそのことだけ書いておきましょう

・「勉強の哲学」とか、「メイキング・オブ・勉強の哲学」とかを読んだわけですけど、気に入ったコンセプトとして”有限性”というのが挙げられます。この語の用法を、すごく縮小的に理解すれば、「どうせ人間、あらゆること/究極に突き詰めたことを勉強するなんて無理なんだから、あえて範囲や時間を区切って勉強する意識が大事ですよ」的なことを説いているわけです。

・で、ふと思ったことですけど、このブログも有限性の塊なんですよ。というか、箇条書きがそう。点を打つことによって、無意識に、一つのパラグラフに一つのメッセージだけを書こうとするし、とりあえず考えたことを書き留めておこうという意識づけにもつながって、ブログを継続することにも資する

・いやお前、一か月近くブログ書かなかったやんけ、ということはいったん置いておいてですね。

・千葉雅也の話を繋げるなら、直前のパラグラフはいわゆる「ツッコミ」(セルフツッコミ)に当たるわけですけど、これは彼がドゥルーズ研究の中で言及している、「イロニー」と対応しているわけですね。それをちゃんと厳密に理解するとどういうことになるのかなと思って、準専門書と言える「動きすぎてはいけない」(千葉雅也の博士論文の改稿です)に目を通しましたが、目を通しただけで終わりました

・勉強の中で、上記の「ツッコミ」がどう機能するかというと、ざっくり言えば問いを深化することにつながるわけですね。イメージで言えば、垂直方向に、自分の問題意識を拡げるということです。

・ところが、勉強は、ツッコミ=イロニーだけでは終わりません。文字通り、際限がないから終わらないんです。○○が分からない、というときに、△△とはそもそも何だろう、と勉強を深めていくと、際限がなくなる、というようなことをイメージしてください。「それを聞いちゃあおしまいよ」というような問いは、際限なく発することができる。これは、脱コード化という概念とも重なる部分があると思います

・そこで、勉強においては「ボケ」=ユーモアの要素も大事になってきます。「それを聞いて何になるのよ」という問いです。これもイメージで言えば、水平方向に展開する問いです

・まあ、タチの悪いことに、上記でことごとく断定的な物言いを避けているところからお察しの通り、彼が提唱する概念の意味合いを厳密に理解しているわけではありません。が、感覚的な理解としては、そこまで大きく間違っているわけではないと思うし、そもそもそういう概念が存在するということを知ることが、今の段階では大事なのです

・という言い訳を交えつつ、これらの概念を用いて、自分のお勉強についてまたせっせと考えていきます。ということで、2021年第Ⅱ期振り返り、はじまりはじまり

日記406

・これ、永遠に考えてる気がするんですけど、留学のモチベーションというか、自分が留学に行くことで会社にとって何がプラスになるのかということについて、相変わらず考えてます。説得的に説明できる気が、今のところしていない

・話は変わるようで変わらないんですけど、現・ディズニー会長のロバート=アイガーの「ディズニーCEOが実践する10の原則」を、友達に薦められて読みました。この人、どっかの大学でMBA取ったとかいう、いわゆるプロの経営者じゃないというところが面白いところで、とにかく他人に対する共感と敬意を大事にしてください的なメッセージが繰り返し伝えられるんですね

・で、まあ、そんな「人の好さ」だけでディズニーの会長になれるものかという意地悪な疑問はさておいてですね、この間のディズニー経営の一つの特徴は、ピクサーから始まってマーベル/ルーカスフィルム/フォックスと、買収を繰り返したことにあるわけですよ。んで、その際に、相手企業のカルチャーをいかに守りながら買収交渉を進めるかという課題があるわけですけど、ここで大事なことは、買収後にどんな理想の未来があるのか、ということを一生懸命思い描くということなんですね

・そのためには、常に自分の会社がどんな理想の姿に向かっていくべきかを考えなくてはならない…ということで冒頭の話に戻らさせてもらいますけど、そんなわけで、留学に行った後の自分の理想のキャリアを、青写真でもいいから描きましょうねという話なんですよ

・しかし、少なくとも留学に行ければ、自分のスキルアップにつながることは間違いないはずなのに、なんでこんなにワクワクしないんでしょうかね。

・せっかくディズニーの話を出したので、例えば、自分が会社の経営者だったとして、買収の話にまったくワクワク来ない時は、どんな時かということを考えてみると、まずはコストに見合うだけの効果が期待できない時でしょうか。

・というか、そもそも、自社の理想の姿を思い描けていない時でしょうかね。つまりあれですね、守りの姿勢に入ってるんですよ。ライバル企業に負けたらどうしようとか、失敗したらどうしようとか。となると、理想の姿云々の前に、まずは自分が抱えている恐怖心と向き合わなきゃいけないですね、これ。

・あのー、あれですね。例えば今、経済学の修士を取りに行きたいと思ってるんですけど、自分の中にある恐怖心はアレです、たとえぼくが経済学を修めなくても、誰かぼくよりも優秀で、現時点で経済学のことをよく分かっている人が勉強すればよくて、しょせん自分が勉強したところでそうした人たちに太刀打ちできないだろう、という恐怖心があるんですね。

・今の会社で、自分よりはるかに優秀な同期/先輩・後輩/上司を、嫌というほど見てきました。そうした中で生き残るには、自分はもっとニッチな戦略を採用しなきゃいけないという、心理的な足かせが働き続けているんです。

・どうすりゃいいんですか?これ

・いや、実は対処法も知っています。千本ノックしかないですよ、これ。過去の話なんて、しても仕方ないんです。何か特定の分野でいいから、今から誰よりも勉強して、エキスパートになるしかないんです

日記405

・小説について考えていきたいんですけど、最近本当に小説のことを忘れていたことに驚いています

・今日、竹橋の国立近代美術館で常設展を見てきました。安井曾太郎とか東山魁夷の風景画を眺めていて気が付いたんですけど、当然のことながら風景画って絵の一種じゃないですか。つまり、風景をそのまま描くだけで(厳密な意味でそのままではないんでしょうけど)芸術たり得るわけですね。そこを行くと、小説って、必ず人間が介在するじゃないですか。つまり、風景だけを描いても小説っていうジャンルの芸術は成立しないんですよ。これってなんでなんですか?

・もちろん、「物語の持つ力が人の心に訴えかけるのであって…」という説明は分かります。つまり、人は人が語る物語にこそ共感するのだから、小説には登場人物が出てきて物語を進める必要がある、という説明はそこそこ納得感があります。

・でも、それって小説だけに言えることじゃないですよね?同じ文芸でも、例えば詩は風景を描くだけでも成立しうるじゃないですか。なんで小説だけが、物語の力を借りないといけないんでしょうか。

・こんな原始的な問い、誰かがいつの時代にも立てているはずなので、何か知っている人がいたら教えてください

 

日記404

・久々に日記を書ける週末ですね。最近あったことをまとめて書いたろかしら

・直近の話からすると、金沢は国立工芸館に行きました。茶の湯特集をやっていて、主に近現代の様々な茶器を見ることができました

・人と一緒に見に行ったので、その場でメモを取ることができず、気に入った茶器や製作者の名前を忘れてしまったのは少しもったいなかったですね。ただまあ、見ること自体は楽しかったので、思い出としてはとても良かった

・なんだこのヌルい日記は

・ヌルくていいんです。メモは取れなかったけど、『水指』とか『茶筅』とか、茶器に関する単語を覚えられたのは良かった。その一週間足らず後に、三井記念美術館の「茶箱と茶籠」展を見に行ったんですけど、その時にも知識がつながった感じがしたのも良かったですね

・良かった、しか感想がない。しばらく文章を書かないとこんなことになるのか

・あと、これはこの先も覚えておきたいんですけど、茶器、特に茶碗を見る際には、「中にお茶が入っていたらどんなふうに映えるのか」というのを念頭に見る、という視点があるのですね。

日記403

・最近、日記を書かなかったからメンタルが若干不安定なのか、メンタルが不安定だから日記が書けなくなっているのか、よく分からなくなってきた

・どちらでもないという話もある。単純に、自分が5月初に立てた計画を粛々とこなしていくと、日記を書いてる暇がないんですよね

・ただし、6月入り後は、ここ最近の記事にも書いている通り、そもそも何に対してもやる気の出ない日というものそれなりにあって、うん。居合のお稽古に行くことによって人間の形を保っているような側面もある。

・そもそも、わたし、自分に対するハードルが高すぎるんですかね?

・「やや高い」くらいでしょうね。常に、今の自分よりも良い自分に明日はなっていたいという、そういう無意識の願望があって、それが自分の精神の休息を妨げている、と書くとカッコつけすぎている気もするけど、実際そうなんだもん

・まあ、そんなわけで今日も今日とて勉強するんですけど、今期のお勉強のテーマであります「資本主義の限界」について、まずは現行の先進国のグリーン政策でも調べるところからスタートしようかしらと思っていたところ、既に失望モードに入りつつある

・つまり、グリーンニューディールやら何やら、先進国が(リーマン後の雇用創出の意味合いも半分以上込めて)音頭を取ってきた公共政策って、やっぱり資本主義社会の中ではコシの弱いものにならざるを得ないし、実際トランプ政権のもとでおっ潰れたし、たとえ今後、米民主党政権下で復活したとしても、あんまり強烈に推進されるものにならないんじゃないかと思うんですよ。

・さらに、今後は欧州主導でこの辺の政策が進んでいくんでしょうけど、彼の国の人たちって、大陸哲学よろしく、「べき論」を語るのに非常に長けてるんですけど、それをどう、実利に落とし込んでゆくのかっていう議論が未成熟なまま走ってゆく気がするんですよね。実利と申し上げた時点で、現行のグリーン政策も資本主義の軛のもとでしか推進され得ないということを前提でお話してるんですが

・あのー、最近、「信長のシェフ」を読んでいて、いまさらながら”にほんのれきし”に興味を持ち始めてるんですけど、そうしたものを読んで、いわゆる資本主義以前の経済/社会を眺めた気になって見ると、やっぱりいつの世も人は、自分の利になることでしか動かないんだなと思うわけですよ。4分の3まで読んだのに読み終えるタイミングを絶妙に失いかけている「三国志」とかもそうですけど、結局人は、自分の財産や権益、将来の安泰を守ることにしか突き動かされないのですよ。

・「フランクリン自伝」もそうですよ。あの人だって、自分を含めた共同体に利する仕組みを追い求めた結果、アメリカという国のお父さん的存在になってしまったわけですからね。

・そうすると、僕がぼんやり実感している資本主義というのは、なんというか超商業主義、功利主義の親玉みたいなものですから、いくら「ぼくのさいきょうのぐりーんせいさく」を欧米人が唱えたところで、人類の利の追求に最適であると気づかれてしまった資本主義というシステムが強固に生き続ける限り、グリーン政策も資本主義の傀儡であり続けるという直観があるんです

・そうした中で、矮小化されたグリーン政策というものがどこまで/どんな発展を遂げるかということを見届けると同時に、やっぱり「資本主義」というシステムが今生生き続けるものであるかどうかも、常に横目に見ておく必要があるんだと思います。

・そして、いつの世も、何か支配的であったイデオロギー(政権、とかでもいいですよ)が崩れるときには、その弱点によって滅びるのではなく、善いと思われていた点が加速的に増大することによって滅びる、という逆説の経験則も、頭の中で直観しています。資本主義の場合、例えばその弱点が何かというと、一つは格差でしょう。今もコロナ後のK字回復やらなにやらが話題になっていますが、そうしたものが声高に叫ばれるうちは、資本主義が崩れることはありません。

・えー。そうすると、資本主義の善い点ってなんですか?僕も今から考えます。一つは、「最適化」の概念を持ち込んだことにあると思ってるんですけど、あんまり本質的ではないな

・そうなると、やっぱり、資本主義の成り立ちとか、そういうものから調べてゆく必要がありますよね。がんばるぞ