日記411

・小林は、この「実存→構造→ポスト構造」のプロセスそのものが行き詰っている、という点をまずは指摘します。ただし、なぜそう言えるのか、という具体的な論理展開に関しては、デリダ以外にもレヴィ=ストロースドゥルーズベイトソンレヴィナスの思想を包括的に分かっていないとついていけないので、ここでは横に置いておく

・そして面白いところは、ちょい長いですが、以下の通り直接引用します。

これを言うと袋叩きにあいそうですけど、こういう機会だ、あえて言ってみれば、ドゥルーズがやった脱領土化とか、リゾーム、生成変化とか、デリダディコンストラクションとか、そういったポスト構造主義的な実践そのものが、ある意味では、この間の資本主義の飛躍的進展にパラレルだったように見えてきてしまうということがある。否定するのではなく、肯定を留保する。革命するのではなく、逃走する。構築するのではなく、脱構築する。こういった実践の戦略は、とりわけ七〇年代以降に顕著になる資本主義の高度化、ソフィスティケーションの戦略とどこか似通ってくる。つまりただ、強大なエネルギーを使用して、構造そのものを根源的に換えてしまうことによって前進していた熱機関的資本主義というか、力による資本主義というか、それにかわって、まったく新しいタイプの絶えざるシステムの開発やデザインの改良によって自己を増殖させるシステムエンジニア的資本主義というか、それへの転換が起きているように思えるわけですね。(引用終わり、pp121)

・ そして、この資本主義の変容こそ、リオタールがかつて「ポストモダンの条件」で指摘したものである、とも言及します。

・そして、資本主義については、「現実の構造を微妙にディコンストラクトしながらイノベーションして、それを変容させる」ことによって利益を生んでいる、と言います。その最先端が、デザインやアートである、というのは、よく分からない。

・分からないが、先に行きます。まず、資本主義の基礎付けである自由は、「交換の自由」であると指摘します。そのうえで、交換の対象である「価値」は、未来への「投機」によって支えられている、とし、そのうえで、その構造は、実存主義によって主張された、「未来の存在の意味への自己の『投企』」に似通っていると指摘します。ここにおいて、資本主義と実存主義の通底を見出します。

・ところが、重要なことに、資本主義は、「(人間的な)意味」に囚われない、とし、例えばひとたび金融危機が起こった国からは、その国の人の生活がどうなろうとも、いっせいに資金が引き上げられる、という例を出します。まあこの辺は、資本主義の特徴として納得のいくものですよね。こうした状況を、「資本主義においては、(人間的な)『意味』がディコンストラクトされている」と表現します。