日記408

・今日考えたいことは、まさに「動きすぎること」にあります。ただし、千葉雅也がドゥルーズ論で唱えているような「動くこと」とは違います。違うと思う。なんせぼくは彼の思想をきちんと捉えてないので、これから自分が考えることが彼の思想の射程と違うか違わないかということすら分かりませんが、まあいい。

・ぼくが「動きすぎている」と言っているのは、これまでの自分の生き方です。これまで自分は、特定の価値観、社会通念、つまり現代思想で言えば”コード”ということになるんでしょうか、そういうものに染まりすぎないように、ということを意識して生きてきました。

・まあ、地球という星の日本という特定の国に生まれ、特定の親に育てられ、特定の教育を受けた以上、もちろんそれに準じたコードをインストールしているわけですが、自分で選択できる部分については、なるべく汎用性の高いコードを習得するように心がけてきたというか、自分のコードの外にも広い世界が広がっているということを努めて意識して生きてきました

・同時に、そうした生き方を否定する人、つまり自分のコードで世界も動いている、動いていてほしい、そうであらねばならない、という人を嫌悪もしてきました。そんな人がたくさんいるとも思えませんが、人は時にそうした価値観を映じた言動をしてしまうものです

・ちなみにぼくは、そういう人たちのことを、縄張り意識の強い人、と呼んでいます

・さて、ぼくのこれまでの生き方というのは、分かりやすく言えば常に門外漢であろうとする生き方です。これ、自分で言うのもなんですが、結構賢いやり方です。

・仮にいま、自分が全く新しい環境に身を置くとしましょう。このとき、この環境には当然それに対応したコードが存在します。このコードを踏まえて、どういった行動をとるとウケがよいでしょうか?

・通常考えられるのは、「その環境のコードをよく読み解き、それに即した行動をとる」というのが最も歓迎されるということになりますが、ぼくの考え方では違います。それだけでは普通過ぎる、と考えて、もう少しレバレッジを効かせるのがぼくのやり方です

・どういうことか。まず、特定の環境下で、「その環境のコードをまるで知らない」という門外漢として振る舞うのです。それだけではなく、むしろ「その環境のコードとはまるで反対、対称とすら言えるコード」を実践さえします。門外漢どころか異質者、敵対者としての振る舞いを、混ぜ込むのです

・その上で、その新しい環境のコードを、これでもかというほど従順に実践して見せます。余裕があれば、そのコードを拡大解釈/深掘りして見せたりする。これは周囲からすると、きわめて好感度の高い振る舞いです

・要は、不良=捨て猫理論です。まず、前提として、社会では「捨て猫を拾うのは優しくて良い振る舞い」との共通理解、コードがあります。その上で、善良な人間が捨て猫を拾うのでなく、あえて反社会的、反コード的な人間が善い振る舞いを実践することで、なんだか実態以上に、その人間がコードに順応している人間に見えるわけです

・というか、自分たちのコードが肯定されたような気がして、安心するんでしょうね。「あんなに悪そうな人が、自分たちの信じるコードを実践している」となると、「それだけ、自分たちのコードは多種多様な人に受け入れられる、素晴らしいコードなんだ」、といった具合に。

・ぼく、何のハナシしてるんですか?