日記347
・もう少し、大学時代の勉強のきっかけを思い出していきます
・大学時代の後半から入った、学部のゼミは、学びのきっかけというより、むしろそれまで学んだことをどう生かすか、という場であったように思います。マクロ経済学のゼミで、国際金融と実証分析を専門とする教授だったので、もちろんそのあたりの興味や知識はある程度深まったんですけど、それよりも「いかにして人とディスカッションするか」ということ、とくにゼミの代表を務めたりしましたので、「いかにして組織を運営していくか」を学ぶことに注力し(てしまっ)た記憶があります
・マクロ経済学にしても、動学的な視点を導入されると、途端に理解のスピードが落ちた記憶があります。だからまあ、初級マクロ経済学はだいたい頭に入ったものの、中級は、厳密には半分くらいしか理解していないということになる。なので、動学均衡モデルも通り一遍のことだけしか頭に入っていません。なぜこれを学びたいかと思ったかというと…そのきっかけは、やっぱり教授の影響ということになるでしょうか
・マクロ経済学に関する深い洞察を、実際の経済現象に即して、ライトタッチな語り口で教えてくれた、ということが、やはりマクロ経済学に対する希望というか、「経済現象をまるごと理解できる」と錯覚させてくれた(実際にその境地に至るには地道な努力や一定の歳月が必要にもかかわらず、という意味です)ことが、自分のモチベーションに繋がったのだと思います
・そのうえで、なぜマクロ経済学を学ぼうと思ったかという本質的な問いに立ち返ると…一つには、「合成の誤謬」を信じたから、かもしれません。これまでの話とつながりますが、目の前のものをまるごと理解したいという欲求があるんですね。なので、ミクロの積み上げで目の前の事象を理解することに疑問を抱いてしまう
・そもそもなぜ、経済学なのかといわれると…これもまた、一つには、社会保障論の授業での教授の発言に影響を受けています。細かい話は抜きにして、ここでは規範分析の対象としての経済学、という視点を得ました。つまり、「生活のための経済学」、人々がつつがなく生きていくうえで、経済に関するマクロ政策運営がいかにあるべきか、ということを考えさせられるきっかけになったんですね。なので cool head but warm heart、みたいな言説は、もろに自分の価値観にフィットしました。これはたぶん、今の自分のモチベーションにも直結しています
日記346
・それだけじゃなくて、その世界史の授業では、「年号で横串を刺すこと」を繰り返し教えられました。それはつまり、「同じ時代に、世界の違う場所で何が起きていたかを語れなければ世界史を知ったことにはならない」ということです。ぼくは不真面目な浪人生だった(第一志望校も結局落ちました)ので、その境地には至れませんでしたが、「人間の総体」たる歴史をまるごと理解することに対する憧れは今も持ち続けています
・何かを「まるごと」理解すること、となると…それは哲学に近いでしょう。哲学にも、浅からぬ興味がありました。大学一年の時に取った、倫理学の授業で、講師がおもむろに卓上のスタンドを取り上げて、「これはありますか。ないかもしれないと思うのが哲学です」とのたまったのが記憶に残っています。そこから「形而上」学としての哲学の存在を知り、今も興味は尽きません。大学生活の後半以降は、戸田山和久の科学哲学に始まって、木田元、中島義道、内田樹等々、日本の哲学者/思想家の代表的著作を読みました。ただし、彼らの研究内容というよりは、もっと一般向けに書かれたエッセイでしたが。
・あまり記憶に深入りしないように、気を付けながらいきましょう。「勉強のきっかけ」としては、まだ骨太のものが2つ以上、残っています
・まず、大学時代の初期に、「観光」というものについて調べたくなったことがありました。そのきっかけとしては、自分の田舎で親が営んでいる、観光関係の自営業の経営状況に不安を覚えたということがあります。先ほど述べた、企業金融という視点で勉強したことを活かして、自分ちの商売のバランスシートを見ることにも興味がありました
・こうした不安は、「どうしたらもっと儲かるか」というところから始まって、「そもそも人はなぜ観光をするのか」「観光とは何か」というより抽象度の高い問いに発散していきました。
・さて、ここから、ぼくは現在にも通じるキーワードを一つ、つかみます。それが「動物園」でした。動物園とは、果たして観光地なのか、違うとしたらそれはなぜなのか、というところに興味を覚えたことがきっかけで、そこから人文科学の分野に足を踏み入れることになりました。当時の大学の研究プロジェクトに応募し、動物関連で人文研究をされている教授にマンツーマンで研究指導をしてもらいました。ぼく自身の学部の所属は経済学だったので、「門外漢」として全く新しい分野の研究手法を学ぶことはわくわくしました
・ここでも、きっかけじみたエピソードを。当時の僕は、経済学部生で、かつ、当初の問題意識は観光学にありましたから、例えば、動物園の入園者数は何によって決定されるかという計量分析をしてみたいと思って教授に持ちかけたところ、(教授の専門分野からみて当然かもしれませんが)「そうした統計的手法で得られるインプリケーションには発展性を感じない」と叱咤された記憶があります。その時に、「人文科学」「社会科学」という立て付けを知ったとともに、人文科学とはどのように研究するのだろうかと興味が湧きました
日記345
・W君についてはもっと書きたいんですけど、とりあえず列挙作業を優先します
・英語の勉強のきっかけはたくさんありますね。海外を飛び回っていた(今もコロナの影響さえなければ飛び回っている)伯父、たまに実家に遊びに来る謎のフランス人(親の友達らしい。てっきり親戚だと思っていた)、姉が聞いていた洋楽。おかげで、中高時代は、英語は周りに抜きんでて得意で、少しも勉強せず、常に成績は最上位クラスでした
・さて、大学時代。ここが一番、自分の「学び」に関する悪戦苦闘が詰まっています
・大学時代はお勉強サークルに入っていたんですが、そのきっかけは…。やっぱり、新勧イベント時の先輩の話ですね。今はフランスで官僚?を目指されているらしい、Kさんという先輩に話を聞いたことでした。具体的に何をおっしゃっていたかは覚えていないんですが、とにかく、「大学で真面目に勉強したい」という自分の背中を押してくれた。同じ思いの人が他にもいるんだと、嬉しくなった記憶だけはあります
・同期にも恵まれました。一緒に教室の最前列で授業を受けていた同期とは、今も親交があります。初めに仲良くなったのは、確か統計の授業だったように記憶しています。一緒に課題をこなし、一緒に質問に行きました。
・あと、単純に、いい会社に入ってお金をある程度稼がなくてはならない、という思いも相応に強かったです。そのきっかけ自体はまた別のお話なのでここでは書きませんが、そういう視点で企業を見てみると、「金融機関」が一番稼いでいそうだった。特に、証券会社や総合金融機関のM&A部署なんかが一番花形のように見えました。HFやファンドマネージャーも然り。それらの実態については全然理解していませんでしたが。それで、大学一年生のころに学生団体に参加して、企業価値算定のグループワークに取り組んだりしていました
・フランス語も一生懸命勉強して、1年余りで仏検3級まで取りました。そのきっかけは…浪人時代の世界史の授業だったと思います。有名塾講師の授業で、欧州大陸文化の独自性、みたいなものに開眼したのでしょうか。そこで講師が話していたのは、確かラスコーの壁画について、実際に彼が研究者だったころに、現地まで調査に行った時のことだったと思います。「フランス人は英語を喋らない」みたいな話が頭に残っていて、だったら勉強しなきゃと感じたんだと思います。
日記344
・勉強のきっかけの続き。誰かから、影響を受けたってことはあるでしょうかね
・こまごましたものだったらあります。高校時代の国語教師が、「新書」という概念を教えてくれたこととか。
・大事なことを忘れていた。小学校時代の同窓、W君。小学校の時分から「天才」「神童」と言われていましたが、そのまま地元で一番良い高校に進学し、東大理Ⅲの模試でA判定を取りながら、「東京には山がないからイヤだ」という理由で旧帝大の医学部に進んだ、彼に大きな影響を受けました
・彼、フリーハンドで日本地図を描けたんですよ。ぼくも教えてもらって、北海道だけは描けるようになりましたが、それ以降は熱が続かなかった
・彼は、「世界の国歌」のテープを図書館で借りて、それを丸暗記していました
・あと、象形文字(ヒエログリフ)も暗記していて、意味を教えてくれました。小学生ですよ。
・そうだ、円周率の小数点以下も百ケタ以上暗記してた。ぼくも一緒に覚えました。その時、「数字は四つずつ覚える」というノウハウを教えてもらった
・近所の川でプラナリアを採取して、頭を切る実験もしてたな。
・いっつもにこにこしながら、楽しそうに勉強するし、それを教えてくれるんですよ。かなり影響を受けました。
日記343
・まずは、「学びの動機付けマッピング」。自分が何かを学びたいと考えるに至ったきっかけについて、始めは箇条書きで羅列します。以下、箇条書きで読みにくいですけどご容赦ください
・考古学との出会い。小さいころから恐竜が好きで、その生態を詳しく知りたいと思って図書館に通った
・「調べ学習」の楽しさ。小学校のころから「総合的な学習の時間」が好きで、自分でテーマを見つけて何かを調べることが楽しかった。絶滅危惧種の動物について、子ども向けの百科事典を繰ったりしていた。中学生の時に、食品添加物について調べ、英語のスピーチ大会に出場した
・「調べ学習」の続き。高校の時にも、ディズニーランドの経営について興味が湧き、そこから発展して「企業経営」について調べるようになった。上に書いた、食品添加物の話も、食品偽装問題という文脈で、ここに繋がっている。ドラッカーを読もうとして挫折した。代わりに、「経営倫理」「ガバナンス」の概念じみたものを知った
・しかし、この時から、「体系立てて」何かを調べる、ということには失敗し続けている気がする。
・英語の勉強のきっかけは、はっきりと思い出せます。中学生のころ、友達に借りた児童向けの海外小説「ライラの冒険」に浅からぬ感銘を受けて、映画のDVDを観たら、主演のダコタ・ブルー・リチャーズにどっぷりハマったんですね。そこで彼女にファンレターを書きたいと思って、海外のサイトを色々と調べて、辞書を引きながら英作文をした。関係ないですけど、そこで「autography」が「サイン」を意味する単語だと知った
日記342
・仕事を納めました。一年間お疲れさまでした。まじでよく頑張った、えらい。
・というわけで、「独学大全」に基づいて、来年以降のお勉強の方法について考えて書いていきます。
・まあ、この本、すごいですね。この本の射程は、お勉強ハウツーの枠組みを大きく超えていて、これまで自分が繰り返し悩んできた(⇔きちんと考えることができていなかった)、「何を学ぶか」「なぜ学ぶか」から始まって、「いかにして学ぶか」という問いに正面から、時には全力の搦め手で、応えてくれる
・「いかにして学ぶか」という方法論については、著者が認めている通り、辞書的に使うのがよさそうですが、前段の、学びに関するモチベーションを考えるところは、ある程度愚直に、このブログに書き記す形でやっていこうと思います
日記340
・どういうことか。織田作之助の「夫婦善哉」を例に考えましょう
・夫婦善哉は、まあダメな夫(柳吉)を妻(蝶子)が甲斐甲斐しく支える的な話です。柳吉は、悪い人ではないし、蝶子に手を上げるわけでもないんですが、商売を始めてもどこか根気がなく、酒や博打で金をすったりしてしまう
・そんなこんなで蝶子は柳吉のダメなところを目の当たりにし続けるわけですけど、でも別れようとはしない。それはなんでかっつーと、二人の間には夫婦という枠組みも超えた人間同士の信頼関係があるからです。だからこそ、タイトルも夫婦善哉、すなわち夫婦は善きこと哉(かな)というわけです
・家庭内暴力、体罰の話に戻りますけど、昔はそういう、人間同士の信頼関係が現代よりも強固だったと思うんです。それはつまり、「この人が自分に酷いことをするはずがない」という信頼です。
・だから例えば、親に、夫に、教師に殴られても、「自分のことを思ってのことだ」とか、「二人のことを思ってのことだ」と思い込むことができ、従って「昔はそういうことをしても良かった」というフレーズが自然と生まれたのではないかと思うんです
日記338
・さて、唐突ですが、居合道道場に通おうと画策しています
・ここが職場からも近いので、来週見学に行くことにしました
・えーと、なんで居合道なのかということは、いったん置いておきましょう。今大事なのは、「新しいことを始める」という部分です
・最近、内田樹の身体論を読み返しているのでそれに影響されたわけですけど、武道には「居着いてしまう」という概念があって、それは確かに自分が空手をかじっていた経験からもかなり実感を持って理解できるものです
・つまり、放っておくと、人はある一定の状態、多くの場合それは、「当面の間、居心地よい環境」ですけど、そこに居着いてしまう、ということです。武道的には、それは一つの動作を完了した後に、そこで身体が止まってしまい、身動きが取れなくなる状態を指します
・まあ、居着いてしまうのは、動作の完了後に限らないんですけどね。普通に立っているだけでも、そこから動けないという身体状態はよくある
・で、居着いてしまうのは、武道的には死を意味します。動けなければ斬られてしまうので
・ぼくは死にたくないので、常に新しい分野に挑戦していくことで身体をいつも「ここではない場所」に持って行きたいんです
・ということで、新しい習い事を始めるというお話
日記337
・自分のポストを振り返ってみれば、数週間前に「試練が欲しい」とかって書いてましたけど、心ならずも試練が出来てしまいました。留学に行くという試練が…
・まあ、いずれにせよ、楽しんでやっていきましょう。年が変われば気分も変わるでしょうし
・えーと、オイゲン・ヘリゲルの武道論/禅論にかぶれてこういうことを言う側面もあるんですけど、ぼくはなるべく物事を逆説的に捉えようとするクセがあります
・だからまあ、今回のこともむしろポジティブに捉えましょうね。人生というのは、「事象」が絶え間なく発生しているだけで、そこにネガポジの意味付けをするのは自分なのですから
・言い訳と言われてもしょうがないです。
・ということで、くさくさとした気持ちを消化するのに2ポストも費やしてしまった。
日記336
・グレイス=ペイリーの「最後の瞬間のすごく大きな変化」を読んでます
・しかしながらそんなことはどうでもよくてですね、非常にくさくさした気分です
・留学選考、落ちました
・え~~~~~
・正直、まあ受かるやろと思ってたんで、かなりびっくりですね。面接の手ごたえも悪くなかったし…
・ぼく、大学受験で志望校に受からなかったことがあるんですけど、そうした経験を総動員して考えると、「まあ悪くないなと思ってたのに落ちたときが一番合格から距離が遠い」ということが言えます
・まあ、落ちたもんはもうしょうがないですね。来年がラストチャンスなので、気持ちを切り替えてまた頑張るしかないです
・理不尽だな、と思いますけど、人生は理不尽そのものなので…
日記335
・FTに、ESMAによる外為市場規制の話が出てましたね。市場参加者からすれば、当然面白くない話、というか、そもそも議論のモチベーションがよく分かりません。
・さて、それはそれとして、内田樹の「私の身体は頭が良い」を再読してます。オイゲン=ヘリゲルの「弓と禅」を併せて読んでるので、なんちゅうか、武道的な心/身体の運びについて関心が向いてるんだと思います
・「私の身体〜」に出てくる、「本来の自己は虚である」という言説が気に入ってます。ラカンの言葉を借りつつ、自己というものは空虚であるという話です
・前に書いた座禅の話もそうですけど、自分を空っぽにすると言うのは案外難しいんですよね。どうしても、自分というものが在ると錯覚して生きてしまう
・そういう意味で、人間の自己というものは、あったりなかったりするもの、明滅するネオンのようものだと考えるのはどうでしょうか。どうでしょうかと言われても、どうでしょうか。