日記480

・やっぱり最初は argument を作んなきゃいけなくて、後にそれアカデミックなものにしていくっていう、そういう順番が良くて、そういう意味では、ぼくはまだargumentを作ってないんだよね。自分が扱おうとしていることの範囲があまりにも広すぎるんで、これどうにかしなきゃなと思ってて、うまいこともう少し、確信をついたところにまとめていかないと。まとめるというか、もう一つキーワードが欲しいなっていうところですよね。

・今ぼくが思いついたことは、信頼と不信にはスケールがある、と。バリエーションつまり、カラースケールのようなスケールがあって、そこにはバリエーションがあると。

・何かに対する中立的な立場から、それに対する懐疑的な立場、それからそれを積極的に信任しない、不信の立場。そして恐怖の立場。あるいは恐怖を越えて攻撃的な立場。そういう段階があるということが、きっと社会学の中で研究されてますよね、

・それは分断とか、そういうものを研究してたら多分そうなると思う。今起きてる事っていうのが、どういうものなのかっていうのを知りたいというのはもちろん前提条件としてあるんだけど、先の未来として、繰り返しになるけど、自分がどういう問題を解決したいか、解決しなきゃいけないかっていうことを考えなきゃいけないですわね。

・で、先週はやっぱり安宅和人さんの議論に全面的に乗っかって、自分が社会的に解決しなきゃいけない課題っていうのは、もう、人口減少社会のハンドリングと、自然との共生、しかないっていう言い方をしたんだけれども。

・そこはもちろん全部乗っかってもいいとも思うけど、自分なりにやっぱり再解釈する必要はあるよね。自分の中では一つは、やっぱり山ですよね。自分が生まれ育った山に対して、東電が地熱の開発で入ってきてるっていう事がどういうことなのかっていうのはちゃんと理解しなきゃいけないのと、事象としてどうなのか、っていうのを理解しなきゃいけないのと、プラス、なんていうのかな。

・山が将来どうなるんだろう、ってのを考えた時に、別に山自体は山であってどうにもならないんだが、それを人間がどう、浅ましくも活用していくかっていうことに関しては、やっぱり一定考えたいことで、多分そこから広がっていくと、日本全体として自然とどう向き合っていくかっていうことにつながっていくと思うんだよね。

・今意外と重要なキーワードをポロっと言ったのは「浅ましく」ってところであって、そういう意味では人間の自然に対する態度とか、基本的な態度もいくつか類型があるはずで、それについて知るっていうのはいいことかもしれないですよね。

・そう、つまりぼくが今知らず知らずに取っている態度は、自然に対しての人間の無力的な態度である、と。で、多分対比にあるのは庇護的な態度ってことだと思うんだけど。それからもう一つの対照になるのは多分、利活用していかなきゃいけないみたいな、そういう態度ですよね。

・で、おそらくそこで、資本主義的な社会システムとの接点をこの考えに持ってこれるんだ。つまり何て言うのかな、いや、つまり、自然との共生を考えるってことは、やっぱり社会、資本主義そのものを考えるっていうことの裏返しだよね。

・どういう言い方が正確かよくわかんないけど。今の地球をぶっ壊していく、このパワーの源には、おそらく消費社会的なシステム、消費を前提とする資本主義の経済システムというのがあるのは、これはもう間違いないですよね。で、何ていうのかな、だから多分そこもちょっと整理しなきゃいけなくて。自分の視点でどう整理するかって言ったら、エコノミクスの合う合わないっていう、結局安宅和人の言ってることなんだけどさ、エコノミクスの合う合わないっていうのと、自然との共生の相克の仕方とか、そういうことを身近な事例から考えるんだろうね。

・現代のエコロジー的なあり方のファラシーみたいなさ、そういうのも問題意識に入ってくるよね。エコであることが本当にエコなのか、 みたいな、日本だと世界から 4 周ぐらい遅れてるような議論の現状を当然知りたいし。 一方で、さっきちょっとだけ触れた、資本主義的エコノミクスのあり方と、自然との共生のあり方、ここはやっぱ実例とか反証が欲しいところだよね。なんていうか、安宅さんが言ってる事ってロジカルに言えば微妙に矛盾ってかすれ違っているところがあって。

・つまり彼が言ってることっていうのは。エコノミクスに合わないところが人間に打ち捨てられていってる、みたいな指摘なわけだよね。多分、そこは彼自身の中でも少し腑に落ちてないところがあるような気がするんだけど、よく例に挙げる富山のどこだっけな、 ちょっと地名忘れたけど、ああいうところで、本来は人間が居住するのに非常に適していたような場所っていうのが今、人口減少の波の中でエコノミクスに合わないという理由で打ち捨てられていくって言い方をしていて、しかし、それはなんというか、別に打ち捨てられていったらいったでいいじゃん、って立場があると思うんだよね。

・それによって自然はもう一度力を取り戻すのである、と。別に人間に住んでもらわないで結構っていうね。ただ一方で、そこにはやっぱりやや矛盾するようなんだけど、ここは言葉のニュアンスに気をつけなきゃいけないんだけど、そういう土地でも人間が再び住めるようにするみたいな、そういう、微妙な態度があるよね、安宅さんにはね。で、おそらくだけど、そうは言っても何て言うのかな、土地に恩恵を受けて生きていくっていうような考えが根本にあるはずだと信じていて。つまり、リソース、自然的なリソースの豊かさを利活用して、そこで人間がもう一度安全快適便利に暮らそうっていうことではないはずなんだよね。

・で、もうここまで来たら、ぼくの自分の理想と言ってもいいんだけど、本当に安宅さんが希求してるのは、もう一度、エコノミクスの側を少し調整して、それによってかつて人間が居住するのに非常に適していた、今の日本の美しい田舎において、もう一度自然の恩恵をいただきながら生きていくっていう、そういう態度が根底にあるはずだと、ぼくは信じていて。そうだといいなと思っていて、かつそれが自分の理想だと言いたいということですよ。

・いや、そうなるとやっぱり、自然に対する人間の基本的な向き合い方の類型っていうのを考えた人がいるはず*1で、そこの議論を少し掘り起こすのはいいような気がする。

・そういうのを一歩ずつやるしかないのかね。そうやったうえでぼくの予想だけど、そういう自然庇護的な立場と、利活用的な立場と、あとは第 3 の立場があるような気がする。それはすなわち、第 3 の立場というのは、「浅ましくも」的立場だよね。人間が何というか、まさにそれはやっぱり持続可能な形で。自然の側から恩恵を受けつつ、自らの豊かな暮らしを実現していくっていうような、そういうアンニュイな立場がきっとあるはずで、ぼくの直感は、第3の道こそが、実現するのは非常に難しい道なんだけれども、そこを希求していかないといけないっていうことを言ってるんです*2。で、それ自体はなんてかすごくお題目的に聞こえて。

・いわゆるサステナビリティとかってそういうことじゃないですかで、これは。わかんないけど、これまた直感だけど、社会学的にそういうサステナビリティの概念が、誤って、誤解されて、矮小化されて、世界に広まっていて、特に日本ではそうなってるっていう可能性がある。

・つまり、今やらなきゃいけないことの一つは、アンニュイなサステナビリティ的なものの考え方が一体ルーツとしてはどこから出てきていて、で、それがルーツを考案した、おそらく賢い社会学者とか哲学者とか、STS の分野なのかよくわかんないけど、そういう人がいるはずなんだが、それが世界に誤った形で広まっていった、そしてその軌跡を何とか辿る、っていうのが一ついいような気がしてきた。難しいんだけど、丹念にトラックしていって、で、当初の理念とかが果たして正しく世界に伝わっているのか、っていうことは考えなきゃいけない。

・だからそうすると割とやることははっきりしてて、サステナビリティというものがどこから来たのか、 という方向性でargumentもかなりargumentの形をなしてくるよね。

・サステナビリティというお題目、あえてお題目というか、そういうものは当初概念を開発した人間の意図とは違う形で世界中に拡散され、そして誤用されたまま今に至っているという、そういうことだよね。で、これ自体も多分よく研究しているような人がいる気がする。

・だよね。でも別にそれはそれでいいか。で、とりあえずそこを見つけるところから始めて、そこからまた考えようよ。で、予想としては、誤用がなされて、それが広まっていったなかで、さっき言ったアンニュイな立場ではない、エコノミクスの考え方とかあるいは逆でもいいんだけど、庇護的な考え方の方に矮小化されて、アンニュイで弱い考え方だった第3の道は、ニュアンスが非常に難しい考え方だったので、エコノミクスとか庇護的な考え方の方に包摂、吸収、あるいは利用されるような形で広まっていってしまったっていうのが、あるんじゃないかなと思います。

・やっぱり、サステナビリティの考え方自体は、ものすごくまともだと思うんだよね。で一方でそこでこう SDGSsみたいな話が出てくると、それをムーブメントとして大きくしようとした結果なのかもしれないが、途端に影響力を失って認知度のみが高まっていった可能性がある*3んですよね。だから、サステナビリティの本来の形に立ち戻らないといけないような気がするんだよね。

・多分これが一つ自然に対する信頼というか、これは何て言ったらいいんだろうね。むしろ正確に言うと、自然というものをいかに扱うかという人間の態度に対する信頼だよね。なので、自然そのものに対する信頼の話ではないんだけど。

・いいかと。で、本当に自然に対する信頼の話を考えたかったら。アニミズム信仰的なこととかね、そういうこと考えてもいい。ストレートではあるよね。

・OK、いいんじゃない、 今言った話は結構大事だよね。サステナビリティの話にやっぱりどうしても行き着くんだけど、サステナビリティと言った瞬間に胡散臭くなるっていうか。だから、そういう物事を一番最初に考え始めた人は本当は誰*4で、その人の言葉っていうのが本当に正しく社会に伝わったかどうかっていうのは、なんていうか、人文学的に研究して意味のあることなのかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、自分はすっきりするよね。で。やっぱりそこはずっとモヤモヤとしてきたことの一つだよね。正直ね。

・多分これを明らかにするには世の中で言われてるサステナビリティっていうのに、どういう態度が包摂されてるかっていうのを考えなきゃいけないよね。で、それはちょっと難しいけどやらなきゃいけない。ちょっとデュルケームとかジンメルとかから、やっぱりちょっと一瞬離れちゃうかもね。

・今日いっぺんに考えるかどうか置いといて、やっぱロボティクスとかテクノロジーについては、それは何だろうね。てか、もしかしたらさ、よく論文とかってさ3 部構成になってたりするじゃないですか、 で、このまま行くと多分、信頼というものを軸に据えて、3つの対象のうちの 1 つが自然に対することで一つが社会システム、一つがテクノロジー。で当然、それらは全て密接に転換しているので。

・一旦このサステナビリティのところから始めて、っていう感じにしましょうか、 これはまたちょっとChat GPTと相談しながら、argumentを磨き込んでいこう。

・さっき言った、第 3 の道があるとする考え方があるとして、それはすごくアンニュイなもので、自然に対してある種、人間の無力感を露呈するような態度の上で自然の力を借りて共生していくっていう意味でのサステナビリティという考え方が仮にあるとしてですよ。それをぼくだけじゃなくて誰かが感じてることで、それが研究の対象としてまとまっていたとして仮にだけど、「だから何なの」、っていうのはあるよね、

・多分なんだけど。分かった。分かった、いや、だから何なの、っていうか。多分第 3 のアンニュイな道っていうのは安宅和人が描く、風の谷の考え方にすごくマッチするようなもので、ぼくとしてはそれを推し進めたいという気持ちは多分あるんだけど、それってやっぱ思想的なバックボーンがないよね。っていうことになるんじゃない?

・仮にそういう指摘が入ったときに、やっぱ第 3 の道ってアンニュイで弱い主張だから、ニュアンスがすごく難しい主張だから、今、大衆(マス)が受容しているサステナビリティの考え方というのとは少し違った考え方なんですよ、っていうのをそれをクリアカットに説明できるっていうか、ある程度の強さを持ってargumentとして主張できるっていうことが必要になる瞬間が来るんじゃないかな。

・そう、やっぱそうだよね。さっきの話で自然保護環境保護的な考えと何が違うのって言われた時に決定的に違いがなきゃいけないわけでもないと思うんだけど、そこに何か不可欠な要素っていうのがあるはずなんだよね。それを先人の助けを借りながら。それを掘り下げていく、見出していくっていう知的な活動には何かしら意味があると思いたい。

・そういう、 一つのムーブメントとして、風の谷的なムーブメントを思想や考え方の側面から後押ししていくっていうことができたらいいなっていうことだよね。

・これはこの間も少し話したような、一つの賭けであってね。一番いいのがやっぱテクノロジーを提供することなんだよ。今からテクノロジカルなギャップを見つけて、そこを埋めに行くようなことをして、「物魂電才」でやるんですよ。でもそれは一つの道ですね、と。それで、風の谷に貢献していく。それはやっぱ一つのやり方ですよ。でもそこに行かないっていうのがぼくの一つのベットなんでしょう。テクノロジカルなソリューションを提供しないっていう。実際できないし、それはできる人がほかにいっぱいいるでしょ。これはやっぱ逆張りでさ。これからね、日本語で言うところの「理系」社会にどんどんなっていくから、それを見越した上で、今、最も地に落ちたと思われる、人文科学の分野でやるってことっす、 そうするっきゃない。そこはある種の「バカヤロー」の気持ちはあるにはあるね。自己を肯定したい気持ちだね。

・自然に対してはそういうことだよね。ただ、自然/社会システム/テクノロジーというふうに、すっきり分かれるとは思いません。正直言って。このサステナビリティに関することだけでも、相当大変だよ。

・これはうまいこと、いろんなもの力を借りながらやっていくしかなくて。整理しておくと、サステナビリティって最初に言い始めた人って誰なの、っていう。で、それはもしかしたら社会運動に求められるかもしれない。宮台真司がよく教えてくれるようなロハスとかね。ああいう社会運動から最初は来てるのかもしれない。でもそれはサステナビリティの定義によるよね。うん。そういうロハスみたいなものが、日本とかアメリカにおいて誤解されて伝わっていったって有名な話は適宜参考にすればいいし、自分の議論の一部にそういうことはなるかもしれない。そうだね。

・それなりに先行研究があるような気がするけどね。サステナビリティって最初に誰が言ったんだって。で、その人の思想の背景には自然に対してどういう態度があったのかっていうことだよね。そこをやっぱ明らかにするのがいいと思いますね。

・願わくばそれが、ここからはこれについては完全に自分のあれだけど、願わくば人がある程度こう名の知れた人で、著作とか、そういうものを多く残している人だといいなっていう。手がかりがいっぱいあるからね。

・あとあれか、安宅和人さんが言うところの、「解けない問題を解くな」っていう話があって。この サステナビリティって誰が言い出したの、 それがどうやって伝わっていったの、っていう問題を解けるか解けないかっていう、そういう疑問はあるよね。それはどっかで行き詰まるかもしれないけどさ。

・その時はその時か。とりあえずやってみようか。ダメならまた別の道を考える。

・それで、貨幣とか社会システムとかについて、か。ジンメルを読むっていうのはそういうことになるし、デュルケームを読むっていうことは、社会分業論だよね。もしかしたらそれを調べることがさっき言ったサステナビリティの議論につながるかもしれないし。繋がらないかもしれないし。わかんないです。どっちかわかんない。

・あんま同時にやんない方がいいよね。多分。研究の方法論も、自分の日常の中にどう落とし込んでいくかってことも、やっぱり少し考えた方が良くて。そうしないとね。やっぱりちょっと持続可能じゃなくなっちゃうんでね。

・サステナブルじゃなくなっちゃうから。そう考えるとやっぱりサステナブルであるっていうのは、意外と自分のキーワードの一つかもしれないな。

・あとあれか。死生観の話も入ってくるよね。サステナブルであるってことはさ。より長く生きるってことでしょ、だよね? 信頼よりもサステナビリティの方がちょっと大事になってきたな。

・一つはあれかもね。社会システムのことで、サステナブルな社会システムこそが信頼に足るのであるという言い方ができるね。いや、それ面白いな。人間がサスティナビリティを意識するということはさ、物の有限性に気がついたってことだよね。

・だって、無限のものに対してはサステナビリティもへったくれもないわけじゃん。で、やっぱ有限性無限性の議論になってきて。ね、そういう意味では、サステナビリティという言葉の流布が始まったことの背景には、当然ながら地球とかそういうものの有限性が強く意識されてきたということであり、それはある種、地球単位で人間が初めて死を意識し始めたって言ってもいいんじゃないの。

・だって、資源とかが尽きることがないと思っていれば、そこにサステナビリティというキーワードは生まれないわけで。うわ。ちょっと待って面白いな。ごめん。これはこれで面白いわ。いや、つまりだよ。

・洋の東西を問わずサステナビリティというようなものの考え方は、古くからあったはずなんだよ。古代の貴族かもしれないし、中世の領主かもしれないし、よくわかんないけどね。日本の歴史的に言えば、栄枯盛衰とか、そういうことだよ*5。

・自分の領土の資源というものの限界を知っているからこそ、人はかつては、 無意識のうちにサステナブルな生き方を実践していたはずなんだよね。で、どこかでやっぱり資本主義経済が加速をして、人々が一時それを忘れたんだろうね*6。

・で、すべては無限ではないと。それは社会システムの一部にも携わる話なんだけど、つまり、例えば前近代の時代に炭鉱とか、そういうところで働いていた人たちの労働力っていうのが無限ではないってことにいみじくも気がついたという瞬間があったはずなんだよ。そこから人権というものが生まれるんだ。うわー。面白いじゃん。

・そこから人権とかの話が出てきてるはずなんだよ*7。いや、そうなるとだよ。愚かな人間というものはかつてヒューマンリソースを炭鉱で使い潰していたように、一度地球というリソースを使い潰さないと、やっぱサステナビリティについて考えないのである、と。

・おそらく使い潰しかけたようなことがあって、どこかで賢い人々が。もしかしたら一人の考えとして、あるいは集合知として、サステナブルであることに対する呼びかけを近現代のどこかでしているはずなんだ。

・そこにはかなりの切迫性があって。キワキワを生きてる感じがあって。そしてその切迫性を理解しない、非常に極端な考え方が、左翼的あるいは右翼的の両極に分極をして、それで今の世界に至るのであるという、そういう考え方があり得て。で、その仮説によって、今の政局とかそういうものをアクチュアリティとして説明できるような可能性があるよね。いや、これ面白いね。いや。でもこれもきっと研究してる人がいるんだけど。

・でもそれはどうでもよくて、むしろ人の研究を知りたい。今のはすごくクリティカルなこと考えたね。つまり繰り返しになるけど。人権という概念はサステナビリティから始まったんだと、サステナビリティについて深く知るということは、これは死を深く知る、死生観を深く知ることにつながるでしょう*8。

・きっと誰かが考えてることだと思うけど、でもこの考えに今自分でたどり着いたって本当に自分ってえらいな。マジで。

・俄然やる気が出てきた。いまはちょっと、「信頼」というキーワードの岸辺から、少し船を動かしたような形になってます。ただ、通底する概念として、これは棄てないでとっておこうよ。今はちょっと、「サステナビリティ」という新しく出くわしたキーワードで、非常に興奮しているけど、多分信頼とかトラストっていうのはどこかでは出てくるし、もしかしたらぼくが知りたいこと、さっき大きく 3 つの分野に分けて言ったけれども、やっぱそれに通底する概念の道具として使える可能性があるので、これは捨てずにとっておきましょう。

・ということで、社会システムと自然、あとテクノロジーか。いや今の話ちょっとサステナビリティとテクノロジーのところも語れるといいけどなぁ。何ていうか、テクノロジーっていうのをさ、身体の延長なんだよね、

・要するに全てにおいて、全てにおいてですよ。身体機能を拡張するものをテクノロジーと呼ぶわけですよね。いや仮に、そういう定義があったとして。今ぼく完全に適当に喋ってるよ*9。

・だけど、テクノロジーっていうのは基本的には身体機能を拡張することにあるわけですよね。本当にそうかわかんないけど。目的としてはそういうことでしょ。ちょっと急に核心めいたことを言っちゃったんだけど、仮にそうだとして、だよ。

・身体性とテクノロジーっていうのは切り離せないとなると、そこにサスナビリティというキーワードが入り込んでくる余地はあって、つまりなんていうのかな。

・難しいね。社会システムとテクノロジーが別のものかって、またちょっと考えなきゃいけないんだけど、それは一旦置いといて、仮に別のものだった場合、テクノロジーが身体の拡張機能であるという定義をさらに認めた場合に…。

・つまり人間は死ぬんだな。つまり人間は死ぬんだ。1 個の個体としての、インディビジュアルとしての認知機能っていうのは当然ながら限界があるんだが、それを拡張するためのテクノロジーとして法人というものがあって、社会システムとして法人というものがあって国家があって*10。

・つまり、テクノロジーと社会システムっていうのは、一つのテックなんだ、と。社会システムというのはそういうことだ、って言ってる人、絶対いるよね。

・で、話を戻すと、何が言いたいかっていうと、それも身体の拡張である、と。なんていうのかな、 そういう意味ではやっぱ身体って、物理的に滅びるものなんだよね。

・で、それをサステナブル、それはなんていうか。ぼくはちょっとサステナブルって言葉の使い方に気をつけなきゃいけないんだけど、なんというか。むしろあれか、永続可能なものを希求するのがテクノロジーなんだ。社会システムとか普通のテクノロジーでもいいんだけど、いわゆるテックでもいいんだけど。

・テクノロジーの究極の理想形は永続的に利用できることなんだよ。一番強いテクノロジーっていうのは永遠に使われていくのかもしれないんだよ。だよね。で、永遠に使えるっていう事は、 サステナブルなんじゃない? 核融合とか。

・つまり、終わるということを想定したくないのがテクノロジーだとすると、そもそもやっぱりさっきの、 死を知るっていうこととは真逆ですよね、

・そうなると、テックというものとサステナビリティというものは、ねじれの位置にある概念だよね。永続するということと、サステナブルであることっていうのが違うかどうかっていうのは考えなきゃいけないね。

・何をもってサステナブルとするかっていう。ある期間というか、やっぱり延々に続くものなんだけど、お尻の方がこう、ぼんやりしてるみたいな、そういうイメージがあるよね。サステナブルという言葉にはね。かなり長い間続くものなんだけれども、やっぱり永遠とか無限とは違って。無限であればサステナブルであることを考えなくていいからね。何かリソースが無限に続くのであれば、究極的には。それか、無限に続くことを想定してるんだけど、閾値みたいなものがあって、それを超えると破壊されてしまって、そこでリソースを生成するシステムが循環として止まってしまうっていうことなんだろうね。

・ちょっとまとめると、サステナブルであるということが、意外と自分の問題意識を横断するキーワードである可能性はあって、「信頼」という概念道具はちょっと手元に持っとくんだけど、それはそれで一旦離れてみようということですね。いいキーワードを手に入れたなと思ってて、サステナビリティについて考えることによって、まずは自分が直感している自然に対する態度を、サスナビリティの観点から説明できるかどうか、だね。この際に注意が必要なのは、いわゆるサステナビリティと言った時に。自分が考える「本当のサステナビリティ」みたいなものが多分あって、それと社会一般で認識されているサステナビリティというものの考え方との間に何か乖離がないかどうか、あるとしたら自分が考える「本当のサステナビリティ」を仮に提案した人がいるとして、その人の当初の意図とは違う形で、社会にサステナビリティというキーワードが通底している、広まっているという可能性があるということをちょっとまずは手がかりとして調べましょう。

・あとはサステナビリティと社会システム。あるいは人権とかの話。さっきも言ったね。サステナビリティというものの前提には何かが永続しないという、人間が有限性を知ったっていうことがあるはずで、サステナビリティを人類が認知/認識した。あるいは動詞として掘り起こした歴史にはおそらくそういう経緯があるはずで。で、それは古今東西、なんとなく認識されてたことだと思うんだけど、だけど、それがおそらく資本主義がかなり加速しすぎたことによって、サステナビリティというワードが急速にカウンターする形で急速にプリバレントになっていったっていう。そういう経緯が多分あって。なので、サステナビリティと有限性無限性の歴史を調べるという。それから、やっぱり社会システムと絡めて、国家や法人っていう。そういう人間よりは長生きするもの、かっこいい言い方だね、一 個の人間より長生きするものを、いつからか人間がそういうものをインベントしてきたんだよな。そう。人類の歴史そのものであるわけですよ。それは。そういうことが多分あったはずなので、社会システムっていう意味ではそういう観点から深掘りができていくでしょう。

・最後に、ここはもうちょっと後で考える必要があるんだけど、テクノロジーのところは、出発点としては、サステナビリティとテクノロジーの観点で言うと、テクノロジーっていうのは身体機能の拡張である、とあえて断じてみた場合に、サステナビリティとの関係性を考えてみたい。なんだろうな。えっとデュラブルであるということと、サステナブルであるということの違いについての。テック側の認識、テクノロジーを生み出す側の認識がこう、すれ違っているというか、もう一回整理しないとよくわかんないんだけど。

 

*1:

環境倫理・エコフィロソフィーの3類型説など

  • しばしば自然に対する人間の姿勢を「征服・保護・共生」ないし「利用・保護・融和」など複数類型で語る議論が行われます。
    • 深層生態学 (Deep Ecology): アルネ・ネス(Arne Naess)らが提唱。自然を人間と同等に価値ある存在とみなし、徹底した共生を訴える立場。
    • 「弱い」環境保護: 資源保全・合理的利用など経済活動と両立させる線が強調される。
    • エコモダニズム: 先端技術を駆使して環境問題を解決しようという、“自然を大規模管理する”路線。

*2:

  • *「強い/弱いサステナビリティ」**という経済学・環境学の概念:
    • “強い”は自然の代替不能性を認め、経済成長や資本による代替を拒否。
    • “弱い”は自然資本を人工資本で置換してもOKとみる。
  • *伝統的生態知 (TEK: Traditional Ecological Knowledge)**研究: 先住民コミュニティが長期的に地域の自然と共生してきた知恵をどう継承しているか、そこに現代社会の持続可能性のヒントはあるかなどを探る。

*3:

拡散と「誤用」の歴史

  • 環境社会学・環境人文学: 「サステナブル」という言葉が、企業や行政、国連機関などでキャッチフレーズ化・バズワード化し、当初の理念が矮小化・表層化されたケースを分析している研究があります。
    • 例: 企業の「グリーンウォッシング」批判、「SDGsはお題目になっていないか」等。
  • ロハス(LOHAS)現象: 2000年代にアメリカや日本で広がった“Lifestyle of Health and Sustainability”が、本来は消費構造を問い直すはずが単に「おしゃれ意識高い系商品」マーケティングに吸収されてしまった、という社会運動論的な事例研究があります。

*4:

起源・言説史を辿るアプローチ

  • 森林学・林業由来: 18世紀ドイツの林業家ハンス・カール・フォン・カロヴィッツ(Hans Carl von Carlowitz) が「Nachhaltigkeit(持続可能性)」を提唱したのが文献上の初出とされる場合があります。
  • 近代的文脈: 国際舞台では1987年の「ブルントラント報告(Brundtland Report) / Our Common Future」が「Sustainable Development」を広く普及させた重要な転換点とされます。
    • ここで提唱された定義(「将来世代のニーズを損なわない範囲で現在世代のニーズを満たす開発」)が、その後のSDGsなどにつながる。

*5:

歴史的人類学・環境史の視点

  • Elinor Ostrom: 『ガバニング・ザ・コモンズ』において、前近代の小規模共同体が森林・漁場などの共有資源を「持続可能」かつ集団ルールを通じて管理してきた実例を多数示した。これを「伝統的エコロジカル知識 (TEK)」や「コモンズの自己管理」と呼ぶ分野がある。
    • 近代以前の農村社会では、森や水、野生動物など「限りある資源」を枯渇させぬよう独自の慣習や規範を形成していた例が世界各地に見られる。
  • 歴史環境学(Historical Ecology):
    • 例えば日本の江戸時代に見られた「里山」管理などは「自然と人間の循環関係」を巧みに保つ実践としてしばしば言及される。
    • ヨーロッパの領主制下でも、領内の森林や水利を維持するための慣習法や規制が存在。過度な伐採や乱獲を防ぐ仕組みを定めていたケースもある。

*6:

「資本主義 vs. 環境限界」の枠組み

  • ローマクラブ『成長の限界』(1972): 経済成長と地球の有限性の相克を数理モデルで示し、大きな議論を起こした。
  • エコマルクス主義 / ジェイソン・W・ムーア (Jason W. Moore): 資本主義が自然を「無尽蔵なフロンティア」と仮定する仕組みを批判し、「資本主義こそが地球破壊と表裏一体である」とする。
  • 脱成長 (Degrowth): セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)らが提唱。成長を前提としない経済・社会こそ真のサステナビリティへつながるとする論点。

近代経済史・資本主義批判

  • 「資本の自己増殖」と無限観:
    • マルクス経済学的には、資本は利潤を再投資することを通じて際限なく成長しようとする原理をもつ。この「限りなき拡大意志」が近代以降の“無限”イメージと結びつき、前近代の「循環的思考」を脇へ追いやったと論じる向きがある(例: エコマルクス主義)。
  • ジェイソン・W・ムーア (Jason W. Moore):
    • 近代資本主義が「無尽蔵な自然」と「無尽蔵な人的労働力」を前提として成立したと批判し、地球の有限性を無視する構造を「Cheap Nature」と呼んでいる。これが近年の環境危機を生んだという議論。

*7:

歴史社会学的視点

  • 「枯渇」や「危機」の経験が新たな制度・価値を生む:
    • 歴史社会学や危機史観の立場からは、危機の経験(資源が尽きる・労働力が足りない・疫病で人口減)→社会改革や道徳観の変容という因果を示唆する研究がある。
    • たとえば14世紀ヨーロッパのペスト(黒死病)後に農奴制が緩和され、賃金が上昇し、農奴の権利向上につながったとされる議論がそれに近い。
  • 人権思想の展開:
    • 近代人権思想はロックやルソーなど啓蒙期の契約論から派生したと通説的には説明されるが、経済・労働の現実も大きく影響している。
    • “無制限な搾取は人間(労働力)を使いつぶす”→“人間の尊厳・権利を承認しないと社会の維持もままならない”という構造的要請があったという視点は、社会史や経済史でサブ的に語られる(主流ではないが、面白い切り口)。

*8:

有限性・未来世代への責任

  • ハンス・ヨーナス(Hans Jonas)『責任という原理』(Das Prinzip Verantwortung): テクノロジーが人類・地球に与える影響が大きい現代こそ、未来世代や自然への責任を道徳的に問わねばならない、という議論。
  • 死生観との接続: 「地球という存在が有限であることを悟る=人類が集合的に“死”を意識するようになる」という論点は、環境哲学や未来学でも取り上げられている(“文明の死”を意識し始めた、等)。
  • ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck): 『リスク社会』で、近代が生み出すリスクがグローバルに広がるとき、人々は「自己の生存」に不安を抱え、根源的な不信やパニックに陥る。ここで「有限性」と「リスク管理」が繋がる。
  • アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens): 同じく近代のリスクや制度化と、未来への責任・時間感覚の変化を論じている。

*9:

テクノロジーを「身体の拡張」とみなす視点

  • マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan): メディア(技術)は人間の身体機能の拡張である、という有名な定式。車は「足の拡張」、テレビは「目の拡張」など。
  • バーナード・スティグレール(Bernard Stiegler): 人間は本質的に「道具(技術)を通して自己を形成する存在」であり、欲望や記憶のあり方すら技術により構築されると論じる。

*10:

  • ブローノ・ラトゥール(Bruno Latour): 近代社会は「人間対自然」ではなく、人間-非人間のハイブリッドネットワークが複雑に絡み合ってきたと主張。社会システムもまたテクノロジーとして機能する。
  • ルイス・マンフォード(Lewis Mumford): 都市や官僚制、資本主義的組織を「巨大テクニック(Megatechnics)」と捉え、人間生活を規定してきたと論じる。