日記393

・さて、2021年第Ⅱ期(5-8月)ですけども、結論としては三本立て(お勉強、小説、英語)を頑張るということになりました。より長期のビジョンと照らしてみても、今期この三本立てに注力するということで良いでしょうか?

・ぼく自身の長期のビジョンを改めて振り返りますと…それは以前にも書いた「カルティベートされた一般人」ということになります。その構成要素の一つは、アカデミックスキルの習得ですけども、そのためには、自分の興味あることについてのお勉強を行うことと、大学院に通うことが推奨されますから、この点、今期にやることは長期のビジョンに即しています。

・しかしながらぼくは、プロのリサーチャーや分析屋になりたいわけではなく…アカデミックスキルの骨法を用いて、自らに必要な知識を蓄積し、社会に対して文化的なインパクトを与えていきたいと思っています。

・え、そうなんだ。今書いてみて、初めて自分の欲求を知りました。

・例えば、たまにぼくが口走る、「動物園の園長になりたい」という欲求ですけど、これは別に動物が好きだからでも動物園が好きだからでも経営者になりたいからでもなく、動物園という装置を通して、現代社会に何かを訴えかけていきたいという欲求があるからなんですね

・やや気が早いカンジもしますけど、ここのモチベーションの整理も、このタイミングでしておきますか?ここのビジョンがしっかりと立ち上がると、色んな活動の下支えになる気がする

・そう言っておきながら、手が止まってしまったな。こういう時は、書きながら考えていきましょう。

・もともと、この分野に関して、ぼくの根底にあった問題意識は何だったかというと…人々が無意識のうちに動物を消費していることでした。そうだったと思います。出発点は、Bergerの論題である、「なぜ動物を見るのか?」というところから一歩ずれて、「なぜ動物を見ても良いのか?」、すなわち、動物園で動物を展示することについての哲学的な位置づけと倫理学的な正当化に関する議論を知りたいということでした。この思いは今も変わらない、ので今期のお勉強のトピックにも動物哲学の学びが含まれています

・結局、学生時代のリサーチを通じてぼくが直観したのは、現代の(特に日本の公設)動物園による、動物展示の正当化に関する議論は全く未成熟であるということでした。つまり、説明が立たないことをやっている。それが良いか悪いかは、ここでは論じていないことに留意してくださいね

・で。正直、この分野に関する絶対的な解なんてないと思うんですよ。そもそも自分は、哲学の分野で解を導くやり方についてのトレーニングを受けたこともないし、受けることもないでしょう。それでも、この分野に関する、主に欧米における議論の蓄積を基に、日本の動物園を改めてレビューすることには一定の意味があると思うんです。

・そして、学生時代に経済学を学び、金融の分野でぼんやりお仕事をしてきた自分と、こうした哲学的議論との融和点の一つが、「公共政策」だと思うわけです。

・この話、初めて言語化するので、自分の中では割と踏み込んだ発言をしているつもりでいます。うふ

・経済学には、経済厚生という考え方がありますね。当たり前ですけど、経済学における公共政策に対しては、この経済厚生をあらゆる意味で最大化することが期待されます。本邦の金融政策が、物価と金融システムの安定を目指しているのは、言わずもがなそれが日本経済の厚生の前提になっているからです

・こうした考えを、日本の公設動物園にも当てはめることができないか、というのがぼくの最初の野心です。公的な動物園が日本社会にもたらす経済的なインパクトはあらゆる意味でかなり小さいですけど、教育とか倫理観の形成という意味では人間に対して大きなインパクトをもたらすものなんです。

・そこがもし、あらゆる意味で間違った政策を取り続けているとしたら、無意識のうちに社会に大きな損害をもたらしていることになります。

・そこで、公共政策に関する哲学を学び、動物園を取り巻く環境についても知ることによって、日本の公設動物園を批評しつつ、より善い動物園を構築するべく活動するというのが、ぼくの長期のビジョンです。そういう意味で、ぼくは動物園の園長になりたい