日記290

・「恥辱」(J=M=クッツェー)を読みました。クッツェーが、史上初となるブッカー賞を二度受賞した際の作品。

・「審判」とか「裁き」が一つのテーマとなっていて、それなりに重いはずなんですが、なぜか軽やかに読めてしまう。悪く言えば、読んだ後に全然心に残らない小説です。それはまさに、ぼくらが日常で見過ごしている無意識の「審判」「裁き」を改めて知らせてくれるようです。気づかないうちに、あなたも他者を裁いている、他者の屍の上に浅ましくも生きている。そういう現実を突きつけられるような小説

・例えば、ということで、まあこんなブログ誰も読んでねーだろという前提のもとでネタバレに近いようなこと書きますけど、舞台である南アフリカ僻地で、動物クリニックに連れてこられる犬や何かを、主人公が安楽死させるシーンが繰り返し描かれるんですね。これはまさに、人間の都合で人間の庇護下に置かれた動物を、人間たる主人公が神となって死という裁きを与えている構図です。現にラストのシーンでは、主人公自身が殺す犬を決めるという意思決定を行う。つまり自分の意志で神に成り代わって他者に裁きを与えるわけです

・ところがこの主人公自身が、セクハラ疑惑、というか教え子に手を出したことによって大学教授の身を追われた、つまり裁きにあった側の人間だったりするわけです。かつ、彼は自分の娘が、自分の目の前で強盗に襲われていたりする。自分の娘が裁きに遭う、という裁きに遭うわけです。

・そうやって見てくると、自分が他者によって理不尽に裁かれる、まあ人生って理不尽だよね、ということを語りつつ、同時に、読者たるあんたも、無意識に他者を理不尽に裁いてるんですけどねという現実を突き付けてくる。そういう小説です

・そんで、もっとも恐るるべしは、冒頭で言いましたけど、この現実をいとも軽やかに描いているという点です。これだけの惨事を軽やかに読めてしまうということ自体が、日常に潜む無意識の「裁き/裁かれ」がぼくらの生活に染みついていることの証左ですよね、ということを訴えかけてくる